[短編] 睡狼 | 四、開示(4/6)
四、開示
幾歳もの時が流れて現代。
目を開けると、アヤメは犬神さまの祠の中に倒れていた。
大犬神社の巫女のおばさんに連れられてここまで来たのは覚えていた。
それでどうしたんだけ?
なんだか気味悪いことがあったように思うがよく覚えていなかった。
立ち上がりアヤメはギョッとした。
巫女の衣装を着ていたのだ。
あのおばさんが着ていたやつだ。
…どういうこと?
見渡すと、おばさんはいなくなっており、代わりにアヤメが着ていた服と、何だかわからない気持ちの悪いビロビロしたものが地面に落ちていた。
おばさんが私に巫女服を着せたということか?
…そしたらおばさんは裸?
いやいや、そんなことはない。巫女服がもう一着あったのか?
アヤメは地面に落ちているビロビロを拾い上げた。
そして悲鳴を上げそれを投げ捨てた。
それは、おばさんの抜け殻だった。
まるでゴム人形のようなシワしわでビロンビロンのおばさんだった。
アヤメは気味が悪くなり逃げ出そうと穴の出口へと向かうと、そこに人が立っていた。
今まで全く気配を感じなかったので、アヤメは心臓が口から飛び出るほどに驚いた。
ヒィッと小さく悲鳴をあげて、アヤメは後ろに下がり、おばさんの抜け殻を踏んでしまってまた悲鳴を上げた。
「忙しない奴だ。これまでの個体とは異なっている。期待してもよいだろうか」
突然現れた人物は静かに言った。
「あの…誰です?」
アヤメは恐る恐る話しかけた。
全身黒ずくめで顔色の悪い、でもかなり美形な若い男だった。
「私は誰でもない。根の国の者だ。ついてきなさい」
こんなに怪しい奴に「ついてきなさい」と言われてついて行く人はいないだろうが、この穴の中にはこれ以上いたくなかったのでアヤメは落ちている提灯を拾うと男について外に出だ。
穴から出ると男は既に階段を降りて行ってしまっていた。
アヤメは男について階段を降りた。途中で自分の服を穴の中に忘れてきたことを思い出したが、またあそこに戻るのは絶対に嫌だったのであきらめた。
拝殿まで戻ると、男は境内の真ん中に立っていた。
アヤメが来るのを見ると、そのままおばさんの家に入って行った。
しかたなくアヤメも向かう。
家に入り、置きっぱなしになっていた自分のカバンを取りに客間に入ろうとしたところで黒服の男に「何をしている、こっちだ」と呼び止められた。
この家の人だったのかな? と思いながら、アヤメは男が入って行った部屋に入った。
そこは書斎のような部屋だった。
壁一面に古い本が並べられていた。
中には新しいノートもあるようだった。
「まずはこれを読みなさい」
男は棚から一冊のノートを取り出してアヤメに渡した。
中を開くとびっしりと手書きの文字が書かれていた。
「これは何? あなた、誰です?」
アヤメが聞くと、男はふっと笑ってごまかした。
その顔があまりに美しくてドキッとしてしまった。
「いいから読みなさい」
書斎にはソファーのような古めかしい長椅子が置いてあった。
アヤメはそこに座ると、ノートの最初のページを開き、たちまちその内容に引き込まれて行った。
ノートの冒頭にはこう記されていた。
ごくりと生唾を飲み込んでアヤメは読み始めた。
それは、どのくらい前はわからないけれど、その昔…アヤメという大地主の娘がシンという氷狼と出会った経緯が書かれていた。
自分と同じ名前の人が出てくる物語にアヤメはすっかりのめり込んだ。
ふと顔を上げると、黒服の男がまだそこに立っていた。
「これはいつくらいの話なの?」
「だいたい千年前だ」
「千年前!? これは後の人が書きなおしたやつなんだよね。あっちの古いのが原本ってこと?」
「いや、原本はない。最初は口承だった。一番古いもので室町時代くらいだ。さあ、先を読んで」
アヤメは先を読み進めた。
氷狼と通じた疑いをかけられたアヤメは家臣に裏切られて殺害され、犬神は自らを凍らせて祠に籠ってしまった。
なるほど、さっきの祠がそれなのか。では奥で凍っていたのはシンなのか?
本当に?
…ん? いやまてよ…アヤメは殺害された?
ではこの物語を語っているのは誰?
アヤメは読めば読むほど混乱してくるこの物語を読み進めた。
ここまで読んでアヤメは一度ノートを閉じた。
混乱していた。イカレているとしか思えない事態だ。何とか口実を作って逃げ出すのが吉…なのだが…。そうとも言い切れない感触がアヤメにはあった。
この途方もない話は本当である…とアヤメは本能的に察知していた。だが、すんなりと受け入れがたいことではあった。
そんなアヤメの心情を黒服の男は見抜いている様子だった。
「君は十六代目の拍森アヤメだ」
静かな声で彼は言った。
「って、言われても…」
「まあ、そうだろうな」
「私には普通の拍森アヤメとして生きてきた記憶もあるし…」
「それはアヤメに変化を持たせるために四代前から導入した仕組みだ。全く同じ人間では同じ思考しかできない。それでは到底答えには辿りつけないと上層部に訴えて仕様を変えてもらったのだ。それに何百年もかかってしまった」
なんだかツッコミどころの多い話しになってきたが、あまりに常軌を逸した話で思考が停止し、アヤメはそれらを全てスルーした。
黒服の男も構わず話を続けた。
「この仕様変更には大変に効果が出ている。四回目の施行にして君はどのアヤメとも異なっている。異端だ。異端は答えに辿りつけるだろう」
アヤメは黙ってしまった。とても自分が何かできるとは思えなかった。このノートに書かれているアヤメと自分を結びつけるものを何も感じることもできないのだから。
「お前は先ほどあの氷の前に行って何も感じなかったか? 自分とはまるで無関係のものと思ったか?」
黒服の男の言うことをアヤメは真剣に考えてみた。
何も感じない…というとそれは嘘だった。何かしらは感じたのだ。
だが、あんな祠の奥にある氷の塊を見て何も感じない方がおかしいのでは?
これは自分が特別だからではないのだ。
「私には自信も自覚もない。このノートに書かれているアヤメが私であるとはとても思えない。だって、そんなに想いなんてないから…」
そう言いながら、アヤメは自分自身がそのアヤメなのだと半分は確信に似た気持ちでいるのだった。
もの途方もない話を、まるで嘘だと言ってここを出て行くことは彼女にはもうできないのであった。
「仮にだよ、仮に、もしも私があの氷を融かすことができてしまったら、私はそこで魂をあなたに取られてしまうの?」
「いいや、私もそこまで非道ではない。犬神の封印が溶けた時点で延命の効果は破棄するが、そこから君の寿命までは魂を取らずに待ってあげよう」
なるほど。それならなるべく早く封印を解かないと、おばあちゃんになってからではまずい気がした。
「だいたいの概要はわかったかな。それでは第十六代 拍森アヤメに全ての記憶をさずけよう」
黒服の男が近寄って来てアヤメの頭を掴んだ。拒む隙もなかった。
男に頭を掴まれると同時に、アヤメの脳に大量の記憶が流れ込んで来た。
それは長い長い物語だった。
アヤメと氷狼シンの千年に渡る物語だった。
(つづく)
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