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[短編] 睡狼 | 五、真の言葉(5/6)
五、真の言葉
目を覚ますとアヤメは書斎の椅子で眠っていたようだった。
長い長い夢を見ていたような、千年の時を早送りで駆け抜けてきたような気持ちだった。
どういう仕組みかはわからないが、黒服の男に頭を掴まれることで、全てのアヤメの記憶が頭に入っていた。
まるでインストールするみたいな? SF映画のようなことがアヤメの身体に起こったのだった。
自分の中に、ノートに書かれていたアヤメの体験がまるで自分のことのように存在していた。
それから、幾度も体を入れ替え、この神社を建立し、凍りついたシンに言葉を投げかけ続けたアヤメの長い人生を思い出した。
千年の時を経ても融けない氷を前にして、自分はそもそも氷を砕く術を持っていないのでは自暴自棄になっていた時代もあった。
怪しげな陰陽師に騙されて全財産を失い、一時は神社まるごと他人の手に譲ったこともあった。
シンが眠る祠を離れて必死に働き、時には身を売ってなんとか神社を取り戻したり、すっかり諦めて他の男に走ったりもした。
しかし、その度に黒服の男に励まされ連れ戻され生きてきた経緯があった。
その黒い服の男が目の前にいる。この者は千年のアヤメをずっと見守ってきたのだ。
いや、ただ楽しんでいるだけか?
これは根の国の神のお遊び。便乗するには贅沢過ぎる代物である。その代償はいかほどのものか…。
考えたくもないことだった。
「どんな感じだ?」
男が言った。
「これができるならわざわざ手記を読ませる必要はないのでは…」
「手記を読まずにやると初代の記憶が入らないことが多い。どうだ?」
アヤメは自分が最初から最後までアヤメであることを感じていた。
「大丈夫。初代の記憶も生々しく覚えている」
それを聞くと黒服の男は安心したように微笑んだ。
その微笑みが美しすぎてアヤメはくらくらした。
目の前の男が本当に神なのであるならば、神とはこれほどに眩しい存在なのか。
それともこれは悪魔の美しさなのか。
アヤメは記憶の中のシンの姿を思い返した。
脚に竹が刺さって蒼ざめた顔をしていたシン。
熱にうなされて苦しそうだったシン。
うまそうにアヤメの作ったものを食べているシン。
どのシンも愛おしく美しく、恋しく思った。
人間たちが来て怯えているシン。
アヤメが刺されて狂気の表情になったシン。
思い出すだけでも胸が苦しかった。
…私の本音はどれ?
思い返すのはシンの様々な表情だけ。
自分の父親を食い殺されたことも、そのせいで母親が死んでしまったこともアヤメの心には深くは残っていない。
そのような傷は長い時の流れがどうにかしてしまったようだ。
残っているのはシンの表情だけだった。
シンの活き活きとした存在感は心の中でどれほどの年月が経とうとも薄れることはないのだった。
私はもう怒ってない。
シンのことは恨んでいない。
あなたの父さん母さんを殺した父を許してほしい?
…いや、許してほしいとは思っていない。
…私を嫌わないでほしい。
私を避けないでほしい。
離れないでほしい。
アヤメは自分の本当の気持ちを探ろうと、深く自己の中へと潜って行った。
目を閉じると、これまでのアヤメの様々な想いが手触りとなって感じられるようだった。
それはザラザラして、ぐにゃぐにゃで、絡み合ってほどけない幾筋もの感情だった。
…私はいったいどうしたいのだろう。
目の前にうっすらと青白い光が見えた。それが恐らくアヤメが辿りつく答えなのだろうと思われた。
…あそこに、私は辿りつける?
アヤメは心の中のシンに幾度幾度も話しかけた。
目をあけるとアヤメは見知らぬベッド…いやよく知っているベッドに横たわっていた。
いつのまにか朝になっていた。
美味しそうな香が漂って来たので、アヤメはむくりと起き上がり、匂いの方へと向かった。
そこはこの家の台所だった。
覗いてみると、黒服の男が料理をしていた。
彼が料理をしている姿は記憶の中でも特に見慣れた姿だった。
おかしなことかもしれない。神に料理を作ってもらっているとは。
彼はずっとこうしてアヤメを生かし食わせてきたのだ。
「よくも飽きずに千年つきあってるか…とお前は思うのだろう」
またしてもアヤメの心を読んだとしか思え得ぬタイミングで男が言った。
解っている。この男にとって時は意味をなさない。ただこの顛末を知りたいだけなのだ。
そしてアヤメの魂が欲しいだけ。どうしてそんなものが欲しいのか解らない。神の考えることは永遠に人には理解できない。
「それで、十六代はどう考えたのだ?」
黒服はさも興味ありげに言った。各個体の差異を観察することが彼の喜びなのだ。
神の遊びは同時に神の実験でもあるのだから。
「さあ、どうかな。わからない」
アヤメは黒服が作った朝ごはんを食べながら自分の心情を回想した。
これまでアヤメはあらゆる感情を言葉にしシンにぶつけてきた。
しかしどんな言葉もシンには届かなかった。
…言葉の問題ではないのかもしれない。
食事を終えると、アヤメはこの家の縁側に出て、ぼーっと日光を浴びた。
アヤメはここ何十年かはこうして想いにふけることが多かったと記憶していた。
ここはアヤメの特等席だった。
本当なら会社に行かねばならない時間だったけれど、これまで自分の人生だと思っていた平凡な毎日は偽りの記憶であると今は理解していた。
会社勤めのアヤメなどは存在しない。
上司に嫌味を言われてげんなりしていたアヤメは存在しないのだ。
ごく普通の家庭に育ち、普通の学生時代を送り、普通の会社員になったアヤメは存在しない。
どんな人と交わっても虚無感しかなかったアヤメは存在しない。
…いやそれは事実かな。
それはアヤメに多角的な視野を持たせるための新仕様なのである。
では、なぜごく普通の人生を体験させられたのだろうか? そこにヒントはある?
何事にも満足しなかった私の中に答えはある?
アヤメは、自分でもうんざりするほど不器用な女だった。
いつの時代も、どのアヤメでも。
だから、自分がどうしたいのか、自分でもよくわかっていない。
シンがどうしたいのかもさっぱりわからない。
もしかしたら、シンはもう二度と目覚める気はないのかもしれない。
アヤメのことなんかはどうでもいいのかもしれない。
シンを目覚めさせたいという想いは、これはただのアヤメのお節介? エゴ? 独りよがり?
いや、まてまて、そんなはずはない。だったらシンはあんなふうに自らを閉ざしたりしないで、自死するのではないか?
彼が生きているのは、生きたいからだ。
でもどう生きてよいのかわからず自らを封印してしまった?
アヤメが死んでしまったと思っているから? アヤメがいない世界では生きたくないってこと?
アヤメが生きていると知らせればいい?
アヤメは延々と考えた。
黒服の男がずっとそばでアヤメのことを観察している気配も感じていた。
今回のアヤメが答えに辿りつけるのか、ワクワクしながら待っているのだ。
「ちょっと独りにしてくれない?」
目をあけるとアヤメは黒服に言った。黒服は黙って家の奥の方へと下がって行った。
アヤメは再びシンのことに集中した。
シンはどうしてほしいのかな。私が出て来てほしいと願うだけではダメなのだ。
自分ががシンだったらどうしてほしいか…。
考えても考えてもわからなかった。
そして、とうとうアヤメは考えるのをやめてしまった。
「心は決まったのかな?」
黒服が家の奥から出て来て、お茶と羊羹を用意していた。
アヤメは羊羹を一口頬張ると、あんこのぶにゅっとした感触を味わった。
ねっとりと甘く歯にまとわりつくような、真っ黒な羊羹だった。
そして急に、解ってしまった。
それは雷に打たれたように、ズバッと上空から脳天に突き刺さるような衝撃だった。
アヤメは思わずあははと声を出して笑ってしまった。
黒服が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「いろいろ難しく考えすぎた。解った。行こう」
アヤメはそう言うと立ち上がった。
黒服の男はうっとりとこちらを見返した。
そこには何らかの感情が乗っていたが、人であるアヤメには読み取れなかった。
アヤメは高ぶる気持ちを抑えきれず家を飛び出すと、拝殿裏の階段を駆け上がって犬神さまの祠へと急いだ。
黄昏時が山に迫り、山の斜面をヒタヒタと夜闇が登ってきていた。
体を動かすごとに、自分が初代アヤメの人格に近づいて行くのがわかった。
これまでの全てのアヤメも同時に存在しているのだが、初代の感覚が強かった。
だからこそ、解ることがあった。一点の迷いもなく解ることだった。
千年の時をかけて難しく考えすぎた。
答えはこんなに単純明快だった。
アヤメは松の木の下の祠に潜り込んで、一番奥の凍った塊び元に辿りつくと、その冷たい表面に手を添えた。
そして大きく息を吸い込むと吐き出すように声を荒げてこう言った。
「こらっ!! シン! いいかげん、起きろ!!」
ゆっくりと追いついてきた黒服がこれを面白そうに後ろから眺めていた。
「出て来てよ。独りにしにしないで。バカなの? いつまで寝てるの? 好きなの。一緒にいたいの。愛してる。ただそれだけ」
アヤメが言い終えると、ビシッと氷にひびが入った。
後ろで黒服の男がハッと息を飲むのが感じられた。
ビシッビシッと次々とひびがひろがり、ぐしゃっと氷の塊が崩れた。
崩れた中から人の形が出てきた。シンだった。
シンの本体はまだガチガチに凍っていた。
アヤメは少し不安に思って黒服を振り返った。
男はすっとアヤメの方に近寄ると耳元で囁いた。
「シンは目覚めるだろう。君はこの子と何をしてもかまわない。だけど最後には私が君の魂を貰っていくからね」
アヤメが頷くと、黒服の男はすっと消えた。
アヤメはシンに向き合うと、その頬に触れた。
額から頬にかけて傷があるのが凍っている上からもわかった。
アヤメが切りつけた傷だった。
その傷をアヤメは愛おしく指で触れた。
それからシンの冷たい唇に口づけをした。
すると、みるみるシンを固めている氷が解けていった。
(つづく)
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