火葬機のスイッチを押す行為
今日までの5日間、母の熊本の実家に滞在していた。
もうすぐ、わたしたちが住む家だ。
祖母が亡くなってから、
数年間は空き家だった。
両親が定期的に通って管理をしていたが、
その両親が静岡に転勤になったので
なかなかそれができなくなってしまったところを
わたしたちが譲り受けた、という感じ。
それで、
住めるようにするために
今まで残されていた遺品などを整理しに、
母とわたしの二人(たまにだいちゃん)で
滞在していた。
その中で、
多く出てきたのが古い写真。
母の学生時代や子どもの頃の写真、
そして、祖母の若いときの写真まで出てきた。
「このときのおばあちゃん、
いまのわたしより若いじゃないか…」
ちょっと、不思議な感覚だった。
今は死んでしまった祖母にも
当たり前だが若いときがあったのだ。
逆を言えば、
今はまだ若いわたしも
いつかは死んでしまうのだなぁ…としみじみした。
祖母はわたしがハタチ過ぎてからなくなったので
記憶に新しいのだが、
祖父はわたしが小学低学年のときに亡くなった。
覚えているかといえば、
あまり覚えていない。
病気がちだったので、病院で寝ている姿を
ぼんやりと思い出せるくらい。
その祖父がなくなったとき、
お葬式で、母が泣いていた。
そんな母の姿を初めて見たので
「どうして泣いてるの?」と尋ねたのをよく覚えている。
「おじいちゃん、死んじゃったのよ。
いなくなっちゃったの。」
って言われたのに、よくわからなかったのだ。
死ぬって何?
もう会えないと言われても、悲しくなかった。
でも、その後の火葬場で、私は泣いた。
母の姿を子どもながらに見ていられない、と思ったのだ。
その火葬場は当時、
火葬機のスイッチを親族が押すようになっていた。
その重大な役目を
長女である母が任されたのだった。
母はなかなか押せず、
泣き崩れていた。
本当に母がかわいそうだと思った。
自分がこのボタンを押したら、
父は焼けてなくなってしまうのだ。
自分のこの
ボタンを押すという行為で
人間の形がなくなってしまうのだ。
できれば、いつまでも、
存在していてほしい。
それなのに、
自分のこの手で、
消し去らなくてはいけないのだ。
そのようなことを
幼いながらに考えて
悲しくなって泣いた。
それを見かねた父が、
わたしたち(妹や弟)を外に連れて行った。
しばらくして、
ゴォーーーー!
と大きな音が鳴り響いて、
「お母さんは、頑張ったのだな。」
と思った。
その時は人が死ぬことにピンと来なかったが、
悲しい気持ちは理解できた。
私の番が来るのは嫌だと思った。
私も長女だから。
父が死んだら、私がやらなきゃいけないのか、やだな。
長男の弟にやってもらおう。
などと考えていた。
(嫌な姉である。)
祖母が亡くなった日、
わたしは悲しくて泣いた。
もう、大人になって、人が死ぬということも
だいたい理解した。
祖父のお葬式から20年程経っていた。
あぁ、
また、母がボタンを押さないといけないのか。
やだなぁ。
火葬機の音、大きくて嫌なんだよな…。
なんて、思っていたら、
さすが20年経っている。
その火葬屋も新しくなっていて、
おまけに
親族がボタンを押す制度もなくなっていた。
遺体を預かると、スタッフの人はテキパキと
「それでは、またあとでお待ちしております」と
私たちを見送り、送迎バスが葬儀屋に戻り、
葬儀屋の待合室でゆっくりさせられ、
数時間後、火葬場に戻ると
きれいに焼かれた骨が用意されているのであった。
最近は骨壷に入るだけ残ればいいとのことで
強い火力で焼き、人の跡形もないくらいの状態だった。
もう、骨かどうかもわからない。
白い、硬いものを骨壷に詰めるのだが、
一通り全員が箸渡しをし終わったら、
あとは、スタッフの人が
「最後に喉仏を入れましょう」
などと進行をしてくれて、
すんなり終わるのだ。
こんなにあっけないものだったか。
いや、
かなり、精神的負担を軽くしてある、と思った。
お葬式は、火を絶やしたらいけないとのことで、
寝ずに交代で火の番をしたりと
寝不足になったりするが、
かなり、ストレスフリーなシステムになっていた。
なんだか安心した。
あのボタンを、もう、押さなくていい。
押さなくていいのだ。
あの、幼いときに見た光景が、
なんとなく重荷だった。
それが
フッと軽くなったのだ。
世の中は良い方に変わってる。
良かった。
そんなことを思い出しながら、
祖父や祖母に思いを馳せた数日間であった。
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