
社会と自分の境界線について
「社会から逸脱しかかっている人間です」と思いながら生きてきた節がある。
自虐であり、事実であり、屈折した自信であり優越感でもあったこの感情を、レッテルとして、同時に勲章として隠し持っていたのが二十代の頃の自分であったように思う。
この十年ほど、ポケットに隠したそんな自尊心がいつの間にかずいぶん小さくなっていたことに気づいたのは、おそらく年齢のせいだけではないだろう。
仕事や結婚や、親になることを経験するなかで、そういった硬くこわばったコンプレックスやプライドが丸くなっていったのだと思う。一体それはどういうことか。
つまり、「自分がやりたいこと」をやるためには、社会との干渉が不可避であるということに気づいたということだと思う。確定申告、戸籍謄本の受け取りに、出生届提出や本籍地変更。細かいところではそんなお役所手続きもそうだし、もっと広くいえば世の中で行われるすべてのことは社会に帰属するといってもいいように思う。
そう考えると、子どもの頃からの自分の人生そのものもなんだか危ういものに思えてくる。要するに、これまでに自分がやりたいと思ってやってきたことも、結局無意識に世の中の影響を受けてやってきたことなんじゃないか?ということだ。そんなことを思ううち、自分はなんてつまらない人間なんだと、自らの主体性の無さに幻滅してしまう。
でもどうだろうか。もっと考えてみると、逆もまた然りであるということに思い当たりはしないだろうか。つまり、完全純粋培養の、外で起きていることにまったく干渉しない自分などいないという、当たり前のことに気づくのだ。
自分の感情や意志は、自分以外のものからの影響と不可分に存在しながら、移り変わっていく。社会や世界といった他者から完全に逸脱することは出来ないのだから、その距離感を無理に変えずに、やるべきこと、やりたいことを模索すればいいのかもしれない。
だから、今の自分の立ち居振る舞い、これまで自分が生きてきた自分の軌跡は、自分だけのものであると同時に、これまで生きてきた時代を部分的に映す鏡なのかもしれない。
自分という人間は、確固とした個人でありながら社会の一部である、そんな当然のことを考えるようになった。(2024.12.11)