「障害=劣っている」について、優生思想について
「障害=劣っている」について
これはほぼ間違いではないと考えています。現代社会において、常人ができることができなくて苦労しているのが障害者なのですから。イーロン・マスクみたいな障害者の上澄みだけを指して「障害でも能力を発揮できる」というのは大間違いでは、と。少なくとも現代社会という環境において、大多数の障害者は健常者と比較し「劣っている」のです。でなければ支援なんて存在しないし、それの奪い合いなんて起こりません。
優生思想について
私は、植松聖やヒトラーが行ったような虐殺には否定的な立場をとらせていただきますが(というより、現代の綺麗事優先な倫理観において、どのような考えを持っていたとしても、建前上は否定的な立場を取らなければいけませんので)、生まれてこないようにすることについては大賛成です。障害者とそれを取り巻く健常者の両者にとってメリットが多いと考えているからです。現代社会という尺度において劣っていると判定された個体を減らすことが、既に産まれてしまった同じ疾患を抱える人間や後天的に障害を持ってしまった人間に必要な支援の相対量を増やすことにもつながるのですから。
優生思想という言葉自体がネガティブな意味を持っていますが、自分の考えと反する思想だからと拒むのではなく、これから生まれてくる子どものために皆が向き合うべき思想だと考えます。
私自身、頭の悪い人間が子どもを産んで虐待死させたり、親の貧困が子どもの貧困につながったりする現実を鑑みるに、知能や経済力の劣った人間は子を産むべきではないと感じております。また、遺伝する障害を持った人間の子作りや過度な妊活、高齢出産のようなリスキーな子作りについて、私は人道の観点から否定的です。これが許されるならば非人道的と言われるクローンであったり、遺伝子改良も許されるのでは、と思ってしまいます。
自らのエゴのために、子を、ひいては社会を殺すようなことを平気で行える人間こそ、私は差別主義者だと考え、軽蔑します。