私にとっての「文章力」とは
書くことを仕事にしていると、「文章を書くのが好きなんですね」とよく言われる。
しかし私は、確かに文章を書くことがあまり苦にならないが、とりわけ好きというわけでもない。むしろ、言葉を紡ぐ以外に情報伝達の手段があるなら、ぜひそちらを使いたいものだと常々思っている。例えば音楽とか写真など。
それなら、なぜ書き続けるのか? と問われれば、答えはひとつしかない。
「口頭で話すと支離滅裂になり上手に真意を伝えられないから」
そう。私はおしゃべりなくせに極度の口下手。それに、会話に入り込むタイミングをつかむのが致命的に下手で、やっと話に入れたと思ったら、既に違う話題で盛り上がっており私は単なる「空気が読めない人」と化してしまうのだ。
一方、「書き言葉」だと言いたいことを頭の中でひとつひとつ整理しながら言葉を紡ぐことができるため、口頭でとっさに話すよりもよほど楽に自分の言いたいことを正確に伝えられる。そして、口頭による会話で誤解を与えてしまった人も、改めて私が書いた言葉を読むと、私に対する誤解を解いてくれることが多いのだ。
つまり、私にとって「文章力」はこの社会で「おかしな人」認定されないための重要なツールであり、これがなければ社会的に抹殺されかねない危険すらはらんでいると思っている。すなわち、文章力はこのどろどろとして世知辛い世の中で、一人の社会人として生き延びるために必死で磨いた能力であると言っても過言ではない。
人間はなにかの能力がひどく劣っていると、他の能力でそれをカバーする。すると劣った能力を補う能力が研ぎ澄まされ、多少優れたものになることもあるのだ。
私にとってのそれは「言葉を使ったコミュニケーション能力」だ。「話す」能力が著しく劣っている私は文章力でそれを補い、なんとかこの年齢まで生きてこられた。でなければ、到底まともな社会人として周囲から認められることもなかっただろうとさえ思うのだ。
それにしても、生きるために必死で磨いた能力は強い。まさかそれでお金を貰うような仕事に就けるとは夢にも思わなかったが、なんとか2年間ほぼ途切れることなくお仕事を頂けている。
また、一部のクライアント様には高い評価も頂いており、全く自分に自信がもてなかった私がこの年にして初めて自分の中に新たな可能性を見出し、今更ながら新しい道が開けつつあることを思うと感慨深い。
もちろん、文章を読むことや書くことが好きで好きでたまらず、これまで私の何十倍も書き続けてきた諸先輩方に到底かなうはずもないことは重々承知だ。
とはいえ、口頭でのコミュニケーション能力が致命的に足りない私は、明らかに対人の仕事には向いていない。だから、もう「文章を書く」ことでしか収入を得る術はないことも明らかだ。
ただ、その方がむしろ「背水の陣」で必死に頑張るから、なまけ心が時々顔を出す私にはちょうどよいかもしれない。特に目立った才能もない私が頭角を現すなんてことは冗談でもないだろうが、とりあえず「文章を書くこと」しか取り柄らしい取り柄がない私は、この業界から無理やり追い出されないよう、とにかく時代が求める文章を死ぬまで書き続けるしかない。
画像引用元:pixabay
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