オリジナル・アルバムとしては14年ぶりとなる元ちとせの新作『虹の麓』。今年でデビュー20周年を迎えた彼女にとって大きな節目である作品が、まさか世界がこのような状況下で生まれることになるとは思いもしなかっただろう。しかし、というかだからこそ、彼女でなければ歌うことのできない、彼女でなければ表現することできない歌が一堂に会したアルバムとなった。
長年、奄美と東京という物理的に距離が離れた中で音楽活動を続けてきた彼女でも、移動の制限や人に会うことができないコロナ禍での制作には大変難儀したようだ。ましてや今回、坂本慎太郎や折坂悠太といった楽曲提供したアーティストたちとのやりとりもデータやオンライン上だったという。普段はボーカル以外のパートでも積極的にレコーディングに立ち会うことで、楽曲を身体に染み込ませようとする歌い手だけに、その苦労はさぞかし大きかったことだろう。
ちなみに元ちとせは戦後70年にあたる2015年に『平和元年』というカバー・アルバムを発表している。これは平和への思いを歌に込めた作品で、2005年の坂本龍一とのコラボレーション曲「死んだ女の子」と同様、「戦争の記憶を風化させない」という大きなテーマを擁した一枚だったのに対し、『虹の麓』は彼女の発言の通り、ごく当たり前の日常や暮らしに目線が注がれたアルバムとなっている。
さらにオリジナル・アルバムの発表が2008年の4thアルバム『カッシーニ』以降途絶えていたことについては、「ワダツミの木」を手がけたプロデューサー・上田現の存在の大きさが少なからず影響しているようだ。『カッシーニ』のリリースを待たず帰らぬ人となった彼のことを、彼女はこう振り返る。
今回のアルバムには、間宮工やHUSSY_R、田鹿祐一といったこれまで元ちとせの作品に名を連ねてきた作家陣に加え、前述した坂本慎太郎や折坂悠太を始め、LITTLE CREATURESの青柳拓次、長澤知之、さかいゆう、冥丁といった豪華クリエイターが参加。新しいソングライターとのコラボレーションは、彼女にとってプレッシャーを感じながらも、歌うことに対する新たな扉を開けることになったようだ。一聴すればわかるが、その歌と声は往年のキャリアに胡坐をかくようなものではなく、むしろ瑞々しさにあふれている。20周年にして彼女は新しい声を自らの手で掴みとった、そんな印象を受ける。
折坂も長澤も個性的な声を持ったアーティストである。その声に代わって自分が歌う理由を見つけることは、技法や経験以上に自分自身に「歌うこととは何か」を問いかける必要があったのだろう。そうして手にした彼女の新しい歌の表現は、これまで以上に曲の世界観や物語に、彼女自身が寄り添っている印象がある。
そんな苦労の末に完成したアルバムは、上質な衣類に袖を通したような肌なじみの良さがあって大変に聴き心地の良い作品となっている。しかしそれは日常生活に自然と溶け込んでいくような普遍性を持ちながらも、片隅には死生観や「もののあわれ」のようなものが縫い込まれていたりもする。見過ごすことも目をそらすこともできない現実があるからこそ、祈りと願いを込めて何でもない日々の感情を綴った歌。それが『虹の麓』であり、20年の節目を越えた元ちとせがスタートさせた音楽人生の第2章なのかもしれない。
文:樋口靖幸(音楽と人)