情熱の詩人、シェークスピア
情熱の詩人、シェークスピア
陶酔とあたたかい涙の渦と、人間の洞察の渦に巻き込む、愛しきシェークスピア。ひとびとの言葉はすべて詩的で映像がなくとも華麗なるダンスを披露する。情熱の詩人、人間を見つめた詩人、シェークスピア。
久し振りに長篇小説を読もうとおもい、長い時間と労力を捧げるには、それに値する作品を・・と思い、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読む。しばらくは精神闘魂で読んでいたのだが、彼の小説のなかでシェークスピアが語られたので、私のなかの情熱の火が灯る。たしか十六のときに「マクベス」は読んでいたのだが、読み終えることを目的としていてあまり精神は這入り込んでいなかった。しかし、シェークスピア作品はいくつか持っていた。「ヴェニスの商人」「ロミオとジュリエット」一年以上も前に購入していたので探して見つからなければタイトルさえも思い出せなかっただろう。それに加えて、ドストエフスキーが引用していた「オセロー」を追加。岩波版と新潮版を購入し、ふたりの翻訳により言葉を堪能しようとおもった。しかしながら私が読むのは何故か「ロミオとジュリエット」掌にしっくりと馴染み、そのまま私の鞄のなかで同行。おかげで「オセロー」二ページでほっぽりだす。私は予めコレを読む!と決めるのではなく、そそる本はとにかく何でも買っておき、部屋に積む。そして時に音楽を聴きながら、時に床に着くまえ、いつでもいい、生活の途切れ間にぱらぱらと捲る。少しだけ捲って戻すこともあれば、そのままずるずる引きずりこまれてゆく場合もある。私が本を読むときは、情熱とともにあるのだが、情熱が失われたら、いつでも放り出す。この情熱の、感覚の微妙な揺れが、私をあっちの本へやったり、こっちの本へやったりする。
シェークスピアに感動し、シェークスピアにあこがれ、シェークスピアに嫉妬する。しかし、シェークスピア作品はシェークスピアが作っているので同じものはいらぬ。私にしか表現できないものを表現してこそ、表現なのである。だんだん明確になる私の表現。
そういえば、私はいま、脚本を書いている。脚本を書こうと思って書いているわけではなく、別に映画やドラマ化にあこがれて目論んだわけでもない(そのような動機で表現はできない。表現が先にくるべきだと私はおもう。あくまで私のやり方)。その構想は映像で表現されすのが最適だとおもったから書いた。私が小説を書くのも、音楽でもなく舞台でもなく、小説でしか表現できないから(そして私の性質上)小説で表現するだけである。この脚本は喜劇で、表情を見せたかった。ヒロインは純粋ながらも狂気的な女で、男のむくろを踏みつぶして生きる女である。その純粋さとあくどさが重なり交わる美しさ。彼女の女としての気位の高さ、それゆえの美しさ。そして毅然と苦悩と立ち向かう強さ。それを描きたかった。悲劇を喜劇と変えうる、汗のなかの純粋な顔に浮かぶ泣き笑い。きっと、視聴者は彼女を抱擁したくなるであろう。そんな女を私は描きたかったのだ。ただ、彼女は悪人でもある。最悪の悪人を描きながらも、美しく気高い女。私は彼女を愛しく抱擁する。
まぁしかし、「ロミオとジュリエット」はいわゆる世間の人間からすれば伝説の人物なのであるが、読んでみればやはりひとりの男にひとりの女である。ジュリエットがロミオの返事を待つせわしさ、気のないふりをこしらえようとする、いまでも世の女の感覚に宿る特性。伝説の架空の人物でありながら、親近感がある。もちろん、伝説というのは時と世間が作り上げるもので、作者からしたら毛頭そんなつもりはない(のだと私はおもう)伝説と日常はシンクロ、重なっているのだろう。しかし、伝説を作り上げるシェークスピアはやはりすごい。なにより言葉が美しい。嫉妬を抱くほどだ。そして、詩のなかから自然と湧き出る人間の洞察。人間という生きものを己の生活に溶け込ませているから自然と言葉が湧き出でるのだろう。だから、詩は書いているときだけが創作の時間ではなく、そのひとの人生から編み出されるものなのかもしれない。だから私はときどきの感覚を大切にする。ひとつひとつを大切に感じ、考えることこそが詩を、文学を生みだすのかもしれない。そんな、一生懸命書いた文章は常々死んでしまっている私の文章。文章とは考えて書くものではないような気がする。では、なんなの・・それを言葉にするのは難しくもあるのだが、しいて云えば、感覚から生まれる・・のであろうか。だからなのか、私は一度書いてしまった文章は大幅には訂正しない。ちょっと形を整える。それか、完全に削除してしまうかである。もう、駄文はきっぱりと捨て去る(時と場合により、参考のためなどに残す)。しかし、己の駄文とは、作者にとって気分が悪いほど煩わしいものである。目の触れる場所にはあまり置いておきたくない。なにしろ、精神衛生に甚だわるい。まぁ、しかし、最近は駄文が少なくなってきている。というのは、駄文に対しての感覚のアンテナが鋭くなってきたからか。だいたい書くまえにわかるので、元から書かぬようにしている。それでもうちにあるものを整理するために書くこともあるが、その場合は書いて落ち着いたら捨て去る。己の感覚が嫌悪を抱いたら、それは駄文である。感覚に敏感であることこそ、表現者であるかもしれない。