ショーペンハウエル
ショーペンハウエル(2008年)
ショーペンハウエルはいい!(当たり前か笑)ショーペンハウエルとは哲学者で岩波書店にて「読書について」「知性について」「自殺について」などが刊行されている。ショーペンハウエルは百年以上前の人物であるが(1788-1860)、その著書は普遍的であるがゆえにいつまでも色褪せない。著作を引用するのはめんどうくさく、読んだ方が早くて正確なので興味ある方は是非とも読んで欲しい。絶対に無駄にはならない良書である。しかし、彼は相当の毒舌家でもあり、謙虚さというのは一切持ち合わせていない(しかし謙虚とは偽善である気もするが)。謙虚さについては自身の著書「知性について」にて語られているが、実に的確であり、それを引用してみよう。
「もしも、偉大な精神の持ち主が謙虚の徳を具えている、というようなことでもあれば、それは世人の気に入ることであろう。しかし、そのようなことは、残念ながら「形容矛盾」なのである。なぜかというと、偉大で謙虚な精神というものがあるとすれば、彼は自分自身の思想や意見や見解やまた流儀習慣などよりも、他人たちの、しかもその数限りないあの連中の思想や流儀の方に優れた価値を認め、そしてこれらとはいつも甚だしくゆき方を異にする自分の思想や流儀を、それらに従属させ順応させるとか、あるいは自分の思想をまったく抑圧して他人たちの思想や流儀の支配に甘んずるとかすることにならざるをえないであろう。だがそうすれば、彼はまったく無為におわるか、それとも他人たちと月並みな作品や業績を生みだすだけであろう。」
これだけ引用するのも微妙だが、他の思想から得られるものも実に己の血肉となり、それは人生に活かせられるだろうとおもう。無駄がないために無駄な時間を取られることもなければこれらの書物は甚だ薄い。この無駄で冗長な文章を削ぐ大切さも「読書について」にて書かれている。
私は日々読書と音楽と感覚の高鳴りと思索と文章と創作の毎日である。それについて会社の人間にいわれる。「勉強が好きなんだね」いや、勉強が好きでするわけではない。必要だからするのであり、この鍛錬が人生をつくり、表現をつくるのである。わからなければそれでいい。彼らは勉強をする人間をどこかで軽蔑している。しかし、言葉を換えれば、勉強とは精神鍛錬でもある。わずかな時間を割いて書物に費やす事の重大さ、そしてそれらが生み出す高尚な価値というのを彼らは知らない。だから「才能がある人はいいね」などという言葉が紡がれるのだ。才能とは先天的なものでもあるが、鍛練なくしては成り立たない。何も見ないその性質ゆえに才能とは程遠い生活を送るのである。
こういう文章はたぶんショーペンハウエルが乗り移った。しかし、ショーペンハウエルの毒舌というのは、はじめは閉口したほど凄まじいもので、俗世が嫌う「低能」「凡庸」それに比較して「天才」云々と至るところに散らばっている(だから天才が浮き彫りにもなるのであるが)。しかし、裏を返せば、ショーペンハウエルはただただ正直なのである。しかしながら、低能と彼が呼ぶ自分の思想を持たぬひとにも役割があり、それが社会を支えているとも思うが、その真っ直ぐさと潔さはなんとも心地よい。
この性質は私の祖母にもある。彼女は自信たっぷりの毒舌家で、彼のように馬鹿呼ばわりを難なくする度胸の持ち主である。しかし、それだけ積み上げてきたものがあるのも確かである。しかし、彼女は商売人であり、私は表現者であり、それらによる相違やそれぞれ住む世界によって考え方も感覚もかなり違う。だから絶対的ではないのだが(それを彼女は知っているとは思うが、表現者と商売人との絶対的な相違については理解が及ばない。しかし理解が及ばないこと自体、彼女は理解している)、彼女が私に与えた影響も感謝しうるものなれば、彼女の言葉は私の下積みを支えるものでもある。そんな彼女の思想を取捨選択しながら伝授し、私はさらに伝授しようと思う。しかしながら、まだまだ自信のない私は彼のような狡猾なトークを散ばせる勇気もなければ、まだその権利を獲得するに至ってないともいえる。謙虚さは自信のなさの表れである。
しかし、ショーペンハウエルを読んで、私の生活形成、人生の在り方に間違いはないといよいよ自信が持てた。この孤独を彼は的確に文章によって説明し得た。ならば、この孤独は、他人と共存できない孤独は無意味ではないのである。とはいえ、私には恋人という存在がある。とにかく、あとは良質と悪質とをきちんと見分け、精進し続けることである。