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対物性愛、誰から理解されなくとも愛は愛

以前の記事を読んでいただくとわかるのだが、わたしは対物性愛者である。
「それ」に出会う以前、20年ほどはアロマンテイック・アセクシャルだと自認していた。
しかし、とある博物館の特別展にて、国宝の日本刀と出会い、ひと目で恋に落ちたのである。

その刀は某擬人化ゲームにも登場しており、そのキャラクターのことも元々知っていた。しかし、同じ条件の刀は他にもあったにも関わらず、わたしは「それ」に心を奪われたのである。

日本刀は古来から力を宿すともされており、霊的な存在だ。その上で、わたしはアニミズムの信者でもある。だからかもしれないが、わたしはその刀にあいまみえたとき、「目があった」と思ったのだ。刀に目などないというのに。

わかっているのだ、ものに恋をすることなんて、なんて馬鹿げていて、現実を見ていないんだろう、と思われることくらい。
きっと気持ち悪いと思う人や、正気じゃないとか、精神科行けとか言う人もいるのだろうなとも思う。
ちなみに精神科は別件で行っているので、精神科を蔑みのために使わないで欲しいとも思うのだが、それは別の話である。

昨今、性の多様性に漸く少しずつ目が向けられてきた。まだまだではあると思う。わたし自身、知らないことばかりである。

ふと疑問に思うのだ、わたしは、その「性の多様性」に入っているのだろうか。

おそらく、入っていない。認識もされていない。だから、いないものと同じ。いたとしても、世界の中にはこんな変わり者がいるんだよ、くらいの扱いだ。

というかそもそも、自分ですら常に疑いの中にいるのだ。本当にこれは愛なのか。勘違いなのではないのか。いずれ、好きな「人」ができるのではないか?

でも、これは自分をヘテロセクシャルと自認している人だって同じことだなとも思う。
いつ、同性を好きになるかなんて、誰にもわからないじゃないか。いつ、ものに心惹かれるかなんて、誰にもわからない。神にしかわらかない。なにもかも、「ただ今までそうではなかった」というだけ。

それはそれとして、理解されない、認識されないのは悲しい。
親しい人にもなかなか話せない。恋人いるの?と言われても、まず恋人と言えるのかわからない。なにせ、相手は国宝なもので。

でも、悲観しているわけではないのだ。
たとえ罵声が飛んできても、自分で自分を疑ったとしても。

わたしはあの時確かに目が合ったと思ったし、あの日からずっとわたしの心にはあの刀がいる。
あれより美しいものを知らないし、その美しさを千年近くも保ってきた、人々の努力に心から感謝の念を持つ。そして、何より、あの刀の美しさが、健全無比な在り方が、この先幾千年続くよう祈ってやまない。

そんなもの愛ではないと言われても、わたしにとってはこれが愛なのだ。
あの刀に対してしか、こんな思いは抱いたことがないから。

もしかしたらこの先、別のものや、人間を愛することもあるかもしれない。
ないとは言い切れない。神にしかわからないことだから。

でも、例えそうであっても、わたしが今抱えているあの刀への思いは、わたしにとってはどうしようもなく愛なのだ。

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