「ナイチンゲール 神話と真実」について
ナイチンゲールについて、書く、書くといいながら、ずっと先送りになってきた。
その理由のひとつは、これを機会にいろいろ調べる必要があることが連鎖反応的に出てきたからである。
結局、公衆衛生学の歴史から細菌学黎明期の歴史までいろいろ調べる必要が出てきた。
しかしの記事は、その「前編」として、スモール著「ナイチンゲールの神話と真実」(田中京子訳 みすず書房)のおおよその紹介としたい。
「後編」は、ナイチンゲール自身の「看護覚え書き」の時代的限界と、それにもかかわらず今日にも通じる、公衆衛生学、細菌学、薬との兼ね合いの問題について述べる予定である。
ナイチンゲールがクリミア戦争(1854-6)に従軍して、コンスタンチノープル近郊のスカタリ(スクタリ)の病院で、史上初の「修道女ではない看護婦の一団」を統率し、クリミア半島の最前線から次々送られてくる数多くの傷病兵を看護したことは、戦争中からイギリス本国に大々的に報道され、「ランプを持った貴婦人」の活躍はロングフェローの詩にも歌われ、一躍時の人になる。
この時集まった基金が、戦争後、世界初の、ナイチンゲールの名を冠する看護学校のロンドンにおける創立に貢献したことはよく知られている。
ところが、各地から送られてくる傷病兵を収容した一大医療センターだったスカタリの大病院は、実際には、ナイチンゲールの看護婦団が着任した後、急激に病院内での死亡率は4ヶ月の間に、8%から42%へと、急増していたのである。
病院に搬入さえるや否や、急激に衰え、死んでいくすし詰めの傷病兵たちを、看護婦たちは看取っていくたけの無力に苛まれていたのである。
ナイチンゲールは、それがもっぱら食料をはじめとする援助物資が前線の兵士に迅速かつ確実に到着しないことによる栄養不良や、前線からスカタリの病院に傷病兵が移送されるまでの段取りが遅過ぎ、手遅れになってから移送されていることにあると考え、軍の補給や移送の体制を痛烈に批判し続けた。「もっと早くスクタリに傷病兵を回せ」と。
更に数ヶ月後、民間人を委員とする調査団がスクタリの病院を訪問する。時の大臣から強力な権限を与えられたこの調査団は、スカタリ病院の衛生状況の劣悪さに気がつき、通気の悪さ、排水や屎尿処理の問題、患者のすし詰め状態についての改善を突貫工事で一気に進める。
その後にはじめて、スカタリでの死亡率は42%から2%へと劇的に低下したのである。
ところが、この死亡率の劇的な変化を、衛生状態の改善の成果であると、当のナイチンゲールはこの段階では思っていなかったのである。
「この冬にスクタリに送られてきた兵士たちが亡くなったのは,瀕死の状態になってからようやく送られてきたためです------今では手遅れにならないうちに送られてくるので,彼らは死ぬことなく快復しています」(現地から大臣への手紙)
ナイチンゲールが「運ばれてくるのが手遅れだったから」ではなくて「スカタリの病院の衛生状態が劣悪だったから」死者が多かったのだという現実にほんとうに直面したのは、イギリスに帰って、調査団の統計担当者と共に、時期別・部隊別・送られた病院別の死傷者の推移についての膨大な統計を詳細に分析する中でだった。
最前線の野戦病院にいたままだったり、スクタリ以外の病院に収容された傷病兵に比して、スクタリに搬送された「衛生改革以前の時期の」兵士たちの死者数だけが際だって高率であるという、覆うべくもない事実。
クリミア戦争で戦死したイギリス軍兵士(この段階のイギリスの兵制では全員志願兵で、しかもエリートの子弟が多い)のうち、16500人は、前線での傷そのものの深さではなく、送られた先の病院の衛生状態の悪さ故に死んだだけであるという、スキャンダラスな現実である。
「早くスクタリに搬送しろ」というナイチンゲールの要求は、「早く死にに来い」と要求していたも同然という、予想外の現実に、ナイチンゲールは直面し、耐えねばならなくなる。
極端なケースでは、傷病兵でもなく、たまたまスクタリに短期間「宿泊地」として立ち寄っただけの兵士が突如死に至るケースすら、まま見られたのである。
ナイチンゲールは、世間から引きこもり、体調を崩しつつも、その後の人生の中で、この「医療過誤」への自分の責任への罪悪感と戦い続ける。
州の長官の娘という名家に生まれ、父親からの個人教授の中で学問に目覚め、専門知識を習得し「女性もこれからは職業をもって社会に出て行くべきだ」という思いに取り憑かれていた若い日々。
家族が大臣や政府高官とも交際がある中で、自分を社会に生かす仕事がないかを繰り返しアピールしていった中で誘いの声がかかったのが、クリミア戦争への看護婦長としての従軍だった。
ナイチンゲールの活躍がマスコミを賑わせたのは、実はイギリスが軍隊を大量にヨーロッパ大陸に派遣したという点ではその後第1次世界大戦までなかった動員数となったクリミア戦争が泥沼化する現実と戦争の犠牲者への政府の責任の問題から目をそらさせるという面もあったし、2万単位の「戦死者」が、前線での死ではなく、それの各地の兵士が収容された後方の「センター」的野戦病院の衛生環境の悪さ故の死であったなどということは、政府や軍にとっても一大スキャンダルであり、この戦争で、「軍隊の統帥権」を再び王のものとしようとしたヴィクトリア女王の名声にも関わりかねない問題だった。
だから、このスクタリ病院の衛生環境が死者を激増されたという冷厳な「統計的事実」を政府は闇の中に葬り、ナイチンゲールには光栄ある処遇をしてことをおさめたがったのである。
ところがナイチンゲール自身は、自分のそれまでの名声をもろに傷つけるのを覚悟で、軍の衛生問題、ひいては公衆衛生問題についてのイギリスの政策を転換させるための貴重な教訓として、議会や政府、そして王室が耳を貸すように、詳細でわかりやすい統計つきの「秘密報告書」を起草、病身をおして、果てしないロビー活動をしていくことに、残りの生涯を費やしていくのである。
しかし、政府は、ナイチンゲール自身がナイチンゲールの名声を傷つけることを許さなかった!! どうも、首相との密約で、ナイチンゲールがどこかで今日でいう「暴露本」を出版しないことを条件に、その後のイギリスの公衆衛生政策にナイチンゲールが期待する人材を登用していくことに便宜をはかるという形になったようである(政見が交代する中で、それも順調に運んだわけではないようであるが)。
それでも、政府がその報告書を闇に葬ることにしたした時、彼女はそのコピー100部を、イギリスの有力者100人に「秘密厳守」としながらも送りつけることまでしている。
後世のナイチンゲールの伝記作者の中には、スクタリ野戦病院での衛生改革を主導したのがナイチンゲール自身の業績である、という記述をしているものもあるようだが、実態は、戦地から帰還して、最初は軍の傷病兵移送の遅さの証拠を得るつもりで、膨大な統計資料を冷静に検討する中で、「図らずも」認めざるを得なかった「予想外の現実」であり、いわばその「罪滅ぼし」として、その後のイギリスの公衆衛生改革運動への協力に尽力したという方が正しいらしい。
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さて、この問題について更に論じていくためには、当時、パスツールなどの先駆的業績の中で認識されはじめていた、伝染病や傷の化膿・炎症における「病原菌」の果たす役割についての学術的な研究への関心の高まりが、実際には、公衆衛生活動を重視する政策の実現と「対立」関係にあったという、現在の目から見ると摩訶不思議な事態を問題にせねばならなくなる。
これについては次回。