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愛にもいろいろありますもので

中学生と保護者のグループ雑談会に保護者として参加した時、女子中学生に「結婚したらラブラブじゃなくなりますか?」と質問されたことがある。

「恋人同士のスキスキラブラブ~みたいなラブラブということなら、なくなります。でもそれは愛が失せたということじゃなくて、愛し方の変化じゃないでしょうか。子供が生まれたら、子供が成長したら、親が年老いたら、身近な人が死んだら、その度に愛情の変化に気付きながらきっと愛は続きますよ。心配しなくても大丈夫です、なくなりゃしません」

何の根拠もなく、言い切っておいた。

私が女子中学生の時にね「次の地理は2時間続けてになったから視聴覚室に移動」と言われた日があったの。

授業開始に遅れて来た地理の先生がこう言う。

「〇〇先生が体調不良で今日はお休みで、次の地理の授業と〇〇先生の今日の授業を交換しました。地理が続けてになりましたので、今から時間が来るまで洋画を観ます。途中チャイムが鳴ってもビデオは止めませんので、休み時間のトイレは各自で行きなさい。」
イェ~~~~イ!!!
視聴覚室から雄叫びがあがる。
かくして視聴覚室の暗幕カーテンを閉め洋画上映会が開催された。

こんなシーンがあった。
年頃になった娘に父親が言う。

「君が『SEXが怖い』と断っても、それは嫌われる理由にはならない。嫌われるのがイヤでSEXをするのは間違っている。SEXをさせないから別れると言うなら別れなさい、そんな男は君を大切にはしてくれない。君を大事に思ってくれる男は、君をいつまでも待てる、そういう男だ」

言い回しは違うかもしれないけど、言っている内容はこういうことだった。

昭和50年生まれの私の時代の性教育は、小学校3~4年あたりで男子と女子を分けて別々に「身体の変化」から肩慣らししていくスタイル。
交通安全ビデオとよく似た「教材として作りました」感満載の性教育ビデオを見るお時間、というのがほとんどだったことだろう全国的に。

「保健体育の性教育の日」とか「今日の道徳は性についてです」とかね、前もってなぜだか予告すんの。
「特別な時間をご用意致しました」とばかりに始まり「とても大事なことだから」と教える。

いいえ。
特別に大事なことなんかじゃなく、いたって日常的なこと。
すべての人類すべてに言える、ありふれた日常のごく一部だよ。
自分が産まれているということはつまり、そういうことだろうよ。

性教育とは、男子と女子とを分けて別々の部屋でやるものではないし「これから性教育をやりますよ」とうやうやしく始めるものでもないと思う。
日常会話の中についでに出て来るようなもので、大事なことだから教えるのではなく、大事なひとだから知って欲しいのだ。

あの映画鑑賞は、初老の男性であった地理の先生の、進んだ性教育だったと私は思っている。
そのことに気付いたクラスメイトは他にもいただろう。
「性教育をします」と言われて観るビデオより、よっぽど中学生の心に響いたと思う、とくに女子にね。

アフターピルや赤ちゃんポスト、賛否両論を呼ぶ「対処法」はこれからもたくさん考えられるだろうし、医学的な進歩もありその選択肢も増えるだろう、薬害が抑えられる安全な薬も開発されるのかもしれない。

しかし「対処法」はすべて「あとのはなし」である。
対処は起こった事柄に対する働きかけで、教育はひとに対する働きかけなわけで、だったら大人がやるべきことは時間はかかるが教育という愛を示すことではないだろうか。

地理の先生が女子中学生にしてくれたように、私は「まえのはなし」が出来る大人で在りたい。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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