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【自己紹介】49年かけて49年分の自己紹介文を書いてゆきますので49年かけてお読みください(since 2024/更新中)
そのひとの人となりがわかる詳しい長文の自己紹介文を読んで「へぇーーー」て唸る時があるし、まったく人となりが見えてこない「箇条書き備忘録」のような自己紹介文に「ほぉーーー」と膝打つこともある。
自己紹介文の「書き方」にもそのひとが現れてんだな~て思う。
「未だかつてこんな自己紹介文なんて見たことも聞いたこともねぇしそもそも読む気が起こらんほど長いけどちょっと読んでみてもえっかな」て魔が差すような自己紹介文を書いてみるとどうなるんだ?とか思いまして。
どうゆう自己紹介文にしたらそんな自己紹介文になるんだろなァ?とか思いましてね。
う~~~ん…たぶん公開型未完成自己紹介文じゃないでしょうかね。
生きてる間に自己紹介が終わらない自己紹介文です。
そのうち過去の自己紹介が終わって今の自分に追い付きますな。
2024年現在の私は49歳ですので、これまでの自己紹介を49年かけてすると完成するのが98歳、ん~~~人生100年時代とは言うがのぅ(←98歳気取り)
親族まぁまぁ90越えの長生き家系ではございますが、どうも98までは生きてる気がしませんのでね、やっぱり公開未完成の作文となりますなどうあがいても。
自己紹介作文2年目の来年からは50歳の私の自己紹介もリアルタイムで足されていくわけですもんね、49年では書き切れないような気もしますし、齢50で特筆するような自己の紹介なんてトシ取る以外にあるのか?て気もします。
自己紹介作文スタートが2024年であることをタイトルに入れたので、来年からは私の年齢を1年ずつ増やしていただくことで自己紹介に代えさせていただき、ひととなりに関しましては、子曰く五十にして天命を知らねばならぬことこの上なく、六十にして耳順いまくりやがりまして、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰ずにいたところ、八十・九十はもぅ子も言及してくれんような年齢ですので、50歳からの自己紹介文はサクッとまとめて1行で書いておきますね、今。
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本年も無事に生きてコツコツとこの自己紹介文を書き足しております
まずは変わらない項目を中心に箇条書きの自己紹介
名前:増える
年齢:増える
性別:女
血液:A型
職業:コロコロ変わる
身長:伸び縮みする
体重:増減する
体温:上下する
趣味:変化する
味覚:偏る
人相:変貌する
性格:変容する
ご覧ください、変わらないと思って挙げた項目がほぼほぼ変わるではありませんか。
今のところ産まれてから変わらないままなのは、生物学上の性別と血液型くらいのもんです。
いやいや生年月日も星座も変わらんやんけ~とお思いですか?
世間一般的には、そうでしょうとも。
しかし我が家では宮崎県特有のテゲテゲ事情がありまして、
私の生年月日の「日」部分が1日ズレておりましてね、家族でも誰も覚えらんないみたいなので分かり易い変動制にしてるのです、だから毎年、誕生日が変わっちゃう。
星座については誕生日の日付の部分を変動制にしてもたぶん変わらないとは思いますが、私が個人的に星座選び放題システムを採用しているので、コレも占いを見る度に変動しております。
ひとまず「名前」に触れておきますね
私の名前は「どの私と関わっているか」で違います、まさかの名前も流動性が高いときたもんだ、このnoteであれば「千徒馬丁」です。
これはペンネームなので、ネット上の記事であったり書籍の中の文章であったりブログ(十目一ハ研究所~ミルニング部~)であったりと、私を文章で知っている人ならば私は「ウマさん」ということになると思います。
非真面目な文章を書いている時にはたいがい千徒馬丁を使っておりますが他にも、揶揄たっぷりな文章であれば駒橋やゆ、詩歌であれば閒室微々、替え歌の作詞であれば、童話であれば、と作文のジャンルの数だけ名乗り放題なのでキラキラペンネームを産み出し過ぎてもはや把握できておりません、きっと黒歴史のひとつですね、呼びたいようにお呼びいただければと思います。
10代の時に使っていたのもおそらく中二病炸裂のキラキラペンネームですが、今は思い出せないのでこの自己紹介を書き続ける49年の間に、なんとか思い出して付け加えたい限りです。
代表的なもうひとつの名前が、踊り子ネームです。
「崩し」というアクロバティックな盆踊りの踊り子として私と関わっている人であれば、私の名前は「まぅ」です。
本名では「まゆ」なのですが、言語障害のある二男の発話に難がありまして、50音中約半分くらいが「半母音」といって「あいうえお」に寄った発音になってしまい、二男は私を呼ぶ時に「まぅ」になります。
なので我が家では、書く時は皆「まゆ」と書くのですが呼ぶ時は言えるヤツが言えないヤツに合わせて「まぅ」と呼びます。
長男の「トモ」も二男が発音すると「チョモ」になるので、呼ぶ時には「チョモ」です。
2013年に成立した「いじめ防止対策推進法」の具体的な取り組みのひとつに「アダ名禁止」つぅのがあるんですがね。
身体的特徴を揶揄するようなアダ名はいじめにつながるケースがある、ちゅうことで、アダ名も呼び捨てもせず「さん付け」で呼ぶよう指導してる小学校が増えてるっつ~のにね、我が家では発達障害の二男の発話的特徴を揶揄したアダ名を呼び名として定着させていて、それを当事者の親が名乗っているので、他人がバンバン呼んでるわけですね。
SNSでも盛大に拡散しておりますし、
盆ジョビ
— Mau@盆踊り (@Mau3_141592) September 1, 2024
空耳シャウト置いとくw https://t.co/OJYQWF00qR pic.twitter.com/6Nc9zbNjEE
踊り子の登録名はすべて「まぅ」でやっています、かれこれ20年以上。
さて、このアダ名がいじめにつながるケースだと思われますか?
皆さんもご存知の通り「いじめ」は学校にだけ存在するわけではありません、会社にもサークルにもお教室にも櫓にも、世の中のいたるところでいじめは発生します。
いじめてるつもりがなくてもいじめられてるつもりがなくても「あの人いじめられてるじゃん!」と感じる人がいれば、加害者も被害者もいないトコロにいじめが発生している不思議が起こるのですよ、摩訶不思議ですね。
盆踊り関係者の皆々様は私の事を「まぅ~」と呼ぶわけですが、ひとりとしてこのアダ名に差別のココロやいじめの意識を乗せて呼んでる人はいません、まだ。
呼ばれてイヤな気分になったことが一度も無いから、まだ。
だって私の「まぅ」が、二男の発話障害から生まれたアダ名であるなんて、よもや誰も思ってもいないだろうから、差別のココロを乗せられるはずがないのですよ。
無知が罪であるだとか、知らないことを免罪符にするなだとか、厳しい意見も一理アリとは思いますが、社会には知らないほうがイイ塩梅になるて現実も同時に存在してます。
世の中は白黒ハッキリさしたほうがイイことだけではなくてグレーなコトのほうがなんぼか多いんですよね。
私の呼び名が発話の揶揄からだという由来を教えても「そやったん?」という反応で、櫓ではひとりとして呼び名を変えることをしませんし、相変わらず皆が「まぅ~」と呼ぶので、二男も堂々と「まぅ!」と大声で呼びます。
知らんまま皆が呼べばそっちが正解になるという良い相乗効果が櫓で生まれているんですよ、これこそが「共存」ではないでしょうか。
私は当事者の親だから実体験を述べることが出来るポジションにいます。
障害への理解はフタをしていては一向に進みません、あきらめずに継続することを当事者がしなきゃなんないんですね。
当事者じゃないと説得力を持たないイノベーションがあります。
社会に隠された障害は社会から排除されてしまいかねないので、揶揄でも何でもイイからまずは出さないと。
その勇気を出そうと思える時に、無理をすることなく出したらいいと思う。
当事者だからこそ出来る大きな社会貢献のひとつだと感じるので私はこうして出しますが、それは私の判断であり私の選択なので「当事者の正解」てわけじゃない、選択や判断や意思決定の自由は責任とセットで誰にでもあるのです。
職業と居をコロコロと変えてきた人生であります
現在の私は無職の兵庫県民です。
職業の欄に「無職」という選択肢があるのだから、無職は職業ということでよろしいでしょうか。
職業になりそうな他の選択肢を選ぶとすれば「主婦」でもあります。
最近、外国人に職業を聞かれたので「無職の盆踊りの踊り子です」と日本語で答えたら「素晴らしい!日本の伝統的なダンサーなんですね!」との反応が返ってきました。
「解釈」てずいぶん広めでいけるもんだなァと開眼しましてね。
昔どっかの誰かが「オトナが本気で楽しんだらそれが職業になる」みたいなコトをゆってたんでね、本気で楽しんでいる2つを合体させて私の職業を言い表すことにしました。
私は、踊り子文筆家です。
誕生~1歳(1975~1976)
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この時一番の笑顔で写っている我が両親は20年以上別居と同居を繰り返し
私が知らない間に熟年離婚をしていました そんな家族の一員です
1975年11月:宮崎県の中絶するならココがベストな産婦人科でうっかり産まれる「人間なのに背中にタテガミが生えてた」と後々まで語り継がれる長女、中間子。
2週間後:名前を付けていないことが判明する。出生届の期限が明日と迫った夜に父親が頭を抱える、名前なんも考えてねぇ。すると3歳の兄が「ま~~~ゆ、まゆ、まゆ」と言い出す。父親が眉毛を触りながら考えていたので「眉・目・鼻・口」と顔のパーツを覚えたての兄が悪気無く「ソコは眉毛だ」と教え、それが私の名前になる。戸籍上の漢字「真由」は完全に当て字「おぉ~まゆでいっか!」の由来通りの「眉」にならなかっただけまだマシ。
1975年末か1976年初:親類縁者がかたまって住んでいる地域の集会場で「産まれた赤ちゃんが泣こうが喚こうが皆でたらい回しに抱っこする」という謎の儀式が行われる。まだ首が座ってない赤ちゃんを2才にも抱っこさせるのでヒヤヒヤするが、2才児が抱っこさせてもらえるのは5秒程度。たいていの幼児は赤ちゃんを抱っこしている間はカチンコチンに固まるので大人は大爆笑してソレを肴に焼酎をあおる。♪ド・ド・ドリフの大爆笑 チャンネル回せば顔なじみ♪の替え歌でおなじみの♪トントントンカラリと隣組・格子を開ければ顔なじみ・廻して頂戴回覧板・知らせられたり・知らせたり♪の戦前日本の隣組が全国的に普及したのが1940年、時代と共に廃れていったのだがウチの田舎ではこの隣組の習慣の名残が未だに残っており、月に一度の「常会」こそ行われないものの出産・結婚・葬儀などは隣組に匹敵する「一族総出」の行事ごと。令和となった現在では高齢化が進み総出になるのはもっぱら葬儀。
自己紹介ココまで刻んで書くか?!て思ってますよね。
書いてる本人も同じことを思っております。
1年で刻んでたら何のエピソードも出て来ない年が出てくるよなァてコトに薄々気付きながらここまで書きました。
死ぬまで書き終わらずに続けるとしたらこのくらいは刻まないとなァと思ってね。
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お下がりを着せられていると勘違いされるほどの男っぷりが良い赤ちゃん時代
上は兄で下は弟でございますよ カワイイ可愛い一人娘ですが何か?
どうやら目次が49以上になるのは濃厚ですねぇ…読んでくれる猛者がいるのでしょうか。
つ~か文字数制限あったっけ?
更新した時に最新記事として反映させるコトて出来たんだっけかな?
こういうnoteのシステム的なことの紹介も自己紹介の中においおい含めていこうかな~そうすると恐ろしく長くなりますよね、自己紹介文超大作の長文蛇足だな。
1976年夏頃:第一子である3歳年上の兄と比べて私は非常に歩くのが早かった模様。9か月でベテランの歩きを見せ競歩を楽しむのにいかんせんチビで「靴がなかった」のが母親の苦労話のひとつ。今でこそ歩くのが目的じゃない靴が新生児サイズでも売っているが、昭和50年の宮崎では靴を履く目的は「歩く」以外には無い。歩ける人間の最小サイズは12㎝が主流であり「9か月で9㎝」であった私の足は、履かせる靴が無くて苦労したらしい。常にブカブカの靴を履いているのですぐに脱げ、気が付くと裸足で歩いているので「裸足でいっか、夏だし」と虐待ともとれる野生児スタイルですくすく育つ。
1976年11月20日:初めての誕生日を、1日過ぎてから祝う。私の誕生日は戸籍上は19日であるが、父親の誕生日が21日であるため、我が家では私が産まれた年から、20日にまとめて祝う方式に変更。このテキトーな宮崎人感覚のことを「テゲテゲ気質」と言う。
1歳~2歳(1976~1977)
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冬に真っ赤なセーターを編み「MAYU」と名前まで入れるも
公園で知らないおばちゃんに「お姉ちゃんまゆちゃんて名前なのね~」と言われ
母は私の散髪をしないと心に決める
1976年春:祖母・父・母・兄が天パなのにようやく伸びた私の髪がストレートであるために「オマエは橋の下で拾って来た」という昭和の定番ギャグが急に真実性を帯び始める。おじーちゃんは天パじゃないんでしょ?じゃぁおじーちゃんの遺伝だよきっとという慰めはいらない、なんせジジィはツルっ禿である、天パかどうかの目視が出来ない。坊主めくりをする時の蝉丸の札と一緒「オマエは一体どっちなんだ」我が家での坊主めくりで蝉丸は隠れ禿げということで卑怯者扱いである。ウチのジジィは何も隠さない立派なハゲだった。
1976年夏:海に困らない宮崎のバカンスは海水浴。さんざっぱら男の子に間違われてる私に性懲りもなく赤いビキニを着せる母。ビックリするほど似合わない自覚が既にあったのか、黒マジックで全身にタトゥーを描くというクールな彫り師の才能をみせる「ニベアクリームで落とした」と言っていた。油性マジックで全身に描かれた和彫りをキレイサッパリ消し去る実力のあるNIVEAは昔からスゴい。
1976年11月20日:2度目の誕生日をまたも1日遅れで祝ったのだろうが、当たり前だが記憶に無い。家庭環境がすこぶる特殊だったので、自分の誕生日にドコの家に居て誰と過ごしていたのか、思い出せないほうが多いのだ。
2歳~3歳(1977~1978)
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兄と3歳差なので七五三が丁度よくまとめられたのだろうが
兄も私も大変に不服そうである
1977年春:従妹が産まれる。ウチの田舎では「いとこ会」というものが発足されゴルフコンペが開かれるなどするほど「いとこ」はすんげぇ組織になる。自分のきょうだいやいとこ・はとこは勿論、ふたいとこ・いとこ半と広がってそれぞれが「いとこ会に呼ぶに値する人物」を連れて来ては「コイツはドコドコのダレダレの町長の息子で」と交流を深め合うのでまぁまぁの他人が混入しているものである。そんな「いとこ会」の礎となる「いとこ」が産まれると、ひとまずたらい回しに抱っこする儀式が始まる。2才差の従妹なので、私の抱っこの番ではカチコチに固まって大人たちから笑いものにされたことだろう。
1978年夏:宮崎の海で波にさらわれる。三島由紀夫は自分が産まれた時の記憶があると主張していて産湯に浸かった時のタライのフチを鮮明に覚えていると述べ「その光景を見た」と表現しているのだからフチにだけピントが合っていたわけではなさそうだ。産まれたての凡人の赤ちゃんは視力は遠視で0.02程度なので30㎝先がぼ~んやり見える程度とされているが、さすが三島由紀夫ほどの天才狂人ともなると目の前推定10㎝のタライのフチがクリアに見えてたのか。私がこのエピソードを「ホントに見たのかもなァ」と半分信じる根拠は、溺れた海の中で見た3歳の頃の記憶とそう違わないからである。波打ち際で座っていて波にさらわれた私は、目の前で砂と貝殻の破片と半透明の小さなガラス片がグルグルと渦を巻いて撹拌されるのを見た。海の中にはしっかりと光も届いていたのを記憶している。コロコロ転がる私の足をつかんで父親が海の中から私を一本釣りした光景も覚えているが、鮮明に見えていたのは海の中で舞う砂と貝殻とシーグラスのみで、光や父やその他の光景はすりガラス越しに見ているようだった。
1978年11月20日:私にとっては誕生日を1日過ぎており、父にとっては誕生日の1日前で、私も父も自分の誕生日でも何でもないので忘れることが多く、家族もあんま覚えてないっぽい「思い出して20日に間に合った年は祝おうかね~」くらいのテゲテゲでやっているのが、父と私の誕生日というイベントである。
3歳~4歳(1978~1979)
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だいたいは撮影した人物の名前が書いてあるのにこの写真には
「わた」がひらがなで「菓子」が漢字「かし」なのか「がし」なのか
という疑問が書かれてあったので調べた 「わたがし」である
1978年冬:宮崎の冬なんてダウンいらないくらいあったかいのに南国の生ぬるい気温でぬくぬくと3年育つと宮崎の冬が骨身に染みるようになる。朝ストーブにかじりついて火傷をしクゥンクゥンクゥンと鼻を鳴らして泣く様を母と伯母(父の姉)が真似して、伯母のモノマネが激似で「鼻を鳴らすなしゃーしぃ!」と私が怒られる大惨事が起こる。伯母、本人より本人らしく鼻鳴らせて父をイラっとさす。私の泣き真似を極めた伯母は76歳になった現在でも完璧に3歳の私のストーブ前の泣きの一声を完全再現できるので、私は3歳の私のモノマネで腹の皮がよじれる。そのたびに「アンタは自分で自分を笑えて世話ねぇね」と伯母は感心している。
1979年春か秋頃:私の記憶にある最初の引っ越しがこの頃である。なかなか家が見つからないので、致し方なく事故物件に住んでいた「この部屋には絶対に入らないでくださいね」と言われている開かずの間付きの事故物件である。鶴が機織りに来たことはない。のちに母から聞いた話であるが大家さんの娘さんが思春期に顔にハタケが出来たのを気にして精神を病んでしまい自殺をしたのだそうだ。開かずの間はその娘さんの部屋で、自分たちは別の家に引っ越して暮らしているが当時の娘さんの部屋をそのままにしてあり、売りもせずに管理しているとのこと。誰に貸す予定もなかったのだが、知り合いから「家が見つからなくて住むところが無く困っている家族がいる」ことを聞き、娘の部屋にだけ入らないのであれば家が見つかるまで貸してもいいということで貸してくれたのだった「事故物件」という概念が当時はまだなかったが、とんでもない安さで立派な一軒家に住めた我が家の賃貸史上最も贅沢な家であった。私の顔には時々ハタケが出来るのだが、馬油クリームを塗りながらこの時の事故物件を思い出して心の中で静かに娘さんを弔い、私が生きることに身近な人々の死をどう活かしていくかと考える機会にしている。
1979年11月20日:「時々まとめて祝われる年があるな」くらいに思っている11月20日という、一応節目の日。こんなに自分に関係のない自分の節目の日があるとは。私はたまに父とこんな会話をする「あ、今日11月20日か~お父さん明日、誕生日やね」「お~20日か、オマエ昨日誕生日やったな?」私と父には「20日前後」という記念日があるのだ。それが私たち父娘が共有している11月20日。何の日でもねぇのに「きっかけ」だけになってる記念日。どちらかが死ねばこの共有記念日は消滅する運命なのだ。
4歳~5歳(1979~1980)
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1979年春頃:無事に住処が見つかり開かずの間付き事故物件から出る。
1980年春:寺の幼稚園に入園「本堂で拝む」というお時間があったり、数珠を作るお時間があったり、陶芸で土を捏ね繰り回すお時間があったりしてじつにシブい、楽しい記憶しかないが毎朝泣いていたらしい何故だろう。ブランコの真ん中で両端のコと手を繋ぎ高く空中を舞って顔面から着地し、右目付近をパックリと割ったこの時の傷が44年を経た今でもまだ残っている。顔面のパックリ割れは流血と傷痕が長引くので気を付けよう。
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1980年たぶん夏:私が5歳頃の記憶だと思っているがちょっと気になっていることがあるので自己紹介の中で触れておきたい。当時、私は宮崎県都城市に住んでいて母が手当たり次第に宗教にハマっていたのがこの頃であった。いろんな宗教の講演会みたいなモノに行ったり宗教書を読み漁るようになり、ある日ホテルの一室のような場所で開かれる講演会に幼稚園児の私は一緒に連れて行かれ、1階ロビーのソファーで座って待っているように言われた。そのロビーが兵隊のレリーフの白い壁紙だったのを覚えている。私が座っていると私よりも1~3歳くらいお姉ちゃんに見える女の子が隣りに座り、私に名前を聞くので答えると「一緒に遊ぼう」と誘って来た。鬼ごっこをしている間、私は何度も彼女に名前を聞いたのであるが「変な名前だから言うのイヤ」と教えてくれない。名前がわからず呼べないので「ヨーーーーイ!」とか「ヨイ!」と呼んでいたら、彼女が名前を教えるからかくれんぼをしよう、と言う。よっぽど変な名前なのか彼女は隠れられる所を探した。テーブルの下、カーテンの中、トイレのほうにも行ったけど結局は壁に押し付けるようにして隅に置かれていた木製の演台を壁から少し離してその中に彼女は私を手招きして入れた。そして自分の名前は「グリコ」だと名乗った。最初に私が鬼なので見つけたら「グリコみ~っけ!」と言うことになる。子供の私たちにとってはロビーは広かったのでグリコが隠れるまで10を3回数えることにしたと思う。しかし30を数え切ることも「もういいか~い?」と聞くことも「もういいよ~」と返事が来ることもなかった。講演会が終わり、母親が私に「帰るよ」と言ったからである。私は大きな声で隠れている彼女に「グリコ~!帰るね~!」と一方的に言って車に乗って帰ったのだが、グリコからは何の返事もなかったので気になっている。彼女は、実在の人物なのか?と。そう思う根拠が2つあって、彼女の運動神経が異常に良かったのだ。ジャンプしても高く、走っても速い。私も幼稚園の中ではかけっこ1番の運動神経を誇っていたのだが、3歳でココまでの差が開くかというほどの差があり、ジャンプなんて飛んでいるように見えたのだ。もう1つの根拠は、グリコと遊んでいる時にホテルのスタッフらしいお兄さんが私にだけチョコをくれた。ニコニコして近づいて来て何も言わずにくれたんだけど、それを見ていたグリコはそのお兄さんに「Give me chocolate!」と言わなかった。ま、とっくに戦後だし。グリコがチョコレートを欲しがらなかったのはお兄さんが進駐軍でなかったからではなく、チョコレートを食べなかったからである。私がソファーに座って一緒に食べようと言っても隣には座るのにチョコレートを食べなかった。6~8歳の子供でチョコレートを食べない、て不自然じゃないか?甘い物が苦手なド偏食の私でさえチョコレートは今でも食べるのに。グリコが実在しているなら本人にコメントをして欲しい、あの日グリコはどんな服装で、私だけが食べたチョコレートの商品名は何か。この答えを私以外に知っているのはグリコしかいないから。
1980年11月20日:5歳になり私は強制的に「オルガン教室」という習い事の教室に放り込まれる。共働きの両親がなんとか遅くまで幼稚園にぶち込める方法はないかと考え、寺の敷地内の一角でやっている「オルガン教室」に幼稚園の後で通わせるという妙案を思いついたようだ。5歳の私は「スズ」を振るつもりで一心不乱にスズを振りかぶっていたが、その様がイタコのようだったのだろう、落ち着いて見えるオルガンを弾くことになった。似合わないヒラヒラのドレスを着せられ発表会まで出場したが、たった1回の舞台で私は引退宣言をした。先生が「まゆちゃんにはオルガンを続けてほしいなァ」と明るく言ってくれたのに「イヤ。」とキッパリ断ったので、母親の笑顔が引きつっていた。まだこの頃は常識を持っていたと思われる母。私の目に母がフツーに見えていたのはたぶんこの頃がギリギリのような気がする。
5歳~6歳(1980~1981)
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5歳からの私のブレなさを誰か褒めてくれ。
オルガンの引退宣言をした5歳で私に自我が芽生えたとするならば、もう5歳で完成形だったのだろう。
1981年春:卒園
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私の記憶が確かならば♪しょ、しょ、しょ~じょ~じ、しょうじょうじのにわは~つ、つ、つきよだ、み~んなでて、こい、こい、こい、おいらのともだちゃぽんぽこぽんのぽ~ん♪と歌っていたので、寺の名前は「しょうじょう寺」である。
1981年春:小学校入学。給食が始まったことにより私の偏食が大々的にバレる。まず米飯を食べられないことが問題となるが、
食べたくないものを無理して食べるなという我が家の食育のもと、給食を絶対に食べないという素直な子供に育ったおかげで、個人的に昼休みがなくなる。
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じつは幼稚園を卒園するより前に引っ越しをしており同じ幼稚園に通っていた子たちのいない小学校に入学しているのであるが、手続き的には新入生として入学式に間に合っているので「転校生」という扱いにはなっていない。
しかし先に「転校生」として転入している3歳年上の兄が同じ小学校にいたため「転校生の妹」という理由でイジメの対象になる。
この地域はとても閉鎖的であったため、ヨソ者を受け入れない土壌があり、残酷ではあるが次に引っ越しをするまでの2年間、兄と私は暴力でイジメと戦うことになる。
小学1年生にしてイジメられて泣いて帰ろうものなら、この写真にある門柱の横に木刀を持った父親が仁王立ちしており「勝つまで帰って来んな」と回れ右をさせられ、ランドセルを木刀でバゴーーーン!と叩かれるのだ。ウチのオトンむちゃくちゃスパルタ九州男児。
その衝撃で目の前のなだらかな坂道を前傾姿勢で下り、その勢いを利用して走り出した小1女子がイジメてきやがった小5男子に泣きながら飛び蹴りを喰らわせる、そんな暴力にミチミチた日々を私は送っていた。
おそらくこの時の私は「頭のオカシイ暴力的な転校生の妹」と思われていたことだろうと思う、実際そうだったからね。
この家での思い出は悲惨なことばかりである。
家族には病気や怪我が多く、イジメや変質者が多発するムラ社会で暴力でしか自分を守る術がなかった。
生傷が絶えなかった孫たちを心配して、祖母が叔母をとにかくウチに行って様子を見て来いと言いつけていたくらい、この家での生活は悲惨だった。
しかし2年後、私たちが引っ越しをする日、イジメっ子たちが全員ウチに来て黙々と引っ越しの手伝いをしてくれ、最後に泣きながら謝って引っ越しをしないで欲しいと言って来た時には、幼いながらにも「人間の本心てわからんな」と思った。
6歳~7歳(1981~1982)
1981年3月9日弟が産まれる
![](https://assets.st-note.com/img/1739699617-5hw8u2nkUit9IlxVKaONZR6Y.jpg?width=1200)
私の人生の最初のターニングポイントは弟が産まれたことだと思う。
肩書に「妹」だけでなく「姉」が加わることの大変化っつったらねぇな。
野生のタヌキを捕まえて庭に小屋を作って飼おうとしたのだが2~3日でタヌキが脱出し野生の凄さを知った私は、野性味はあるが手懐けることの出来るペットがこの世にいないものかと探し求めていた。
そこへ丸々と太った弟の誕生である。
早速縁側から転げ落ち額をパックリと割って縫う野生ぶり。
急に呼吸困難に陥り、重度のアレルギーであることまで判明する世話の焼ける弟。
もぅ完全に弟は私のペット私のオモチャ、捏ね繰り回して可愛がったサ。
1982年春頃ザキ病に罹患。
母親がヤマザキ春のパンまつりという白い皿がもらえる病気に罹る。
その影響を受け、私も長患いをしている。
弟が産まれる頃には母親の宗教狂いが本格的になり、色々な宗教の集会に出掛けるようになるのでほぼ家にいない。
共働きで忙しかったこともあり、子供だけで過ごしている時間が本当に長く、まだ未婚で実家暮らしだった叔母が私たちの面倒をよく見てくれていたし、学校が休みの日は殆ど祖父母宅にいたので、私たちきょうだいは叔母のことを「姉ちゃん」と呼び、祖父母を親として4人きょうだいのようにして育っている。
がしかし、祖父母のことは「ラーメンのじいちゃん&ばあちゃん」と呼ぶ。
祖父母が食堂をしていて最終的にはラーメン屋として店を縮小したからである。(つづく)
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![千徒馬丁](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/19113550/profile_673f2860a13101eeeed4bae18f8e95e0.jpg?width=600&crop=1:1,smart)