ながらスマホにご用心
「ジジィ、そんなことじゃ一生つり革はつかまれへんぞ」
「くくくく…つり革を確認する時間がそんなにも惜しいか、やな」
私は息子たちのながらスマホと自撮り棒購入を絶対に認めない。
息子二人はとっくに成人しているが、私の目の黒いウチはながらスマホと自撮り棒購入を許さないと決めている。
だから定期的に「まさかと思うけど自撮り棒買ってへんやろな?」と別居の息子には問いかけている。
一緒に出歩いている最中の息子たちの「ながらスマホチェック」にも余念が無い。
ケータイを持たせた高校生のスタート時から「立ち止まってでないとスマホ画面を見ることを許可しない」と言ってあるので、息子らは赤信号で止まったのをこれチャンスとみて、野生動物でもそこまでの素早さはねぇぞと感心するほどの早さでスマホの画面を見つめる。
なんなら「黄色信号は注意して進め・歩行者信号青点滅は走れ」の暗黙の了解がある関西で我が子たちはスマホ画面を確認したいがために止まりやがるのだ、どうだモラルが良かろう、関西人にあるまじきマナーの良さである。
しかし、この信号待ちのスマホは落とし穴があり、止まっている間に見ているつもりでいて青信号になると十中八九そのままナチュラルにながらスマホに移行する。
そうなると、ながらスマホを絶対に認めない私からの回し蹴りがモモ
尻にヒットすることになる。
「いっっっった!ちゃうちゃうちゃう、ちゃうやん。ちゃうやーん」
「今のはながらやな」
「いやいやいやいや、今のは~今のは~ちゃうて~」
これがかの有名な立ち止まっていたつもりのながらスマホである。
冒頭二男、電車に乗り込みつり革の前に立ったと思えばもうからスマホを取り出して画面に夢中であった。
そしてそのまま画面から目を離さず、つり革をつかもうとしてつり革とつり革の間に我が手を伸ばし、その手の高さはグングンとつり革を越した、荷物棚にでも用事があるかのように。
「あのままならいつまでたっても空を掴むやろな。位置も違うし高さも違う。スマホ画面しか見てへんから行動がアホの極みや。つり革に一瞥もくれられへんほど画面から目を逸らすわずかばかりの時間がそんなにも惜しいか」
私がそう二男をたしなめた時、近辺にいたひとのほとんどがスマホ画面を見ていたが、私のこの発言が耳に入りスマホ画面から目を離したのは、私の前に座っていた中年女性ただひとりだけであった。
しかもその女性はスマホをバッグにしまい、顔を上げて私と目を合わせ大変に好意的な笑顔を向けてくれた。
なんて美しい笑顔であろう、大阪の阪急電車内にこんなひとがいたなんて。他人の会話に耳を傾け自分を省みてすぐその場で自分を変えられるひとなのだ。
あまりの即座っぷりに膝がガクガクした。
ま、それは休憩もせずに散歩し過ぎたせいだが。
生涯、私は息子たちのながらスマホと自撮り棒購入を絶対に認めない。
便利が原因で自分本位になってほしくはないからである。
そして何よりも、文明に慣れることで本能を鈍らせてはならないからである。
本能的に他を思いやる心を忘れてほしくないからである。
自分も含めひとは簡単に自分本位になれるから、しょっちゅう自分を省みて戒めていかなきゃいけないのだ。
それを親として子に教える手段が、ながらスマホをしたら回し蹴り炸裂の儀と自撮り棒を購入したら端末カカト落としの刑である。
暴力的なやりすぎの毒親と言いたくば言え、毒も使いようによっては痛み止めとしてイけるのだ。
息子らがイタい人間にならんよう、毒を以て毒を制すまでである。
ながらスマホに夢中になって歩いて向かいから来たひとによけてもらってる皆さん。
くれぐれもながらスマホにはご用心あそばせ。
画面しか見ていないと、いつか散水機でビチョビチョになりますよ。