殴り書き
https://note.mu/terrakei07/n/ndeb5edee0626
僕の周りでもほとんどの友人がTwitterを利用しているが、自分もそのうちの一人だ。
最近毎日のように見ず知らずの人の怒り、憎しみ、憤りが自分のTLに流れてくる、それも多くの♡を引き連れて。
僕はまだ20そこらの若者だが、少なくとも小さな頃から見慣れた光景だとはとても思えない。
特に僕の目につくのは、既婚者の女性が「日本の男は家事も育児もしない、私は家庭でこれだけ虐げられている、これだけ苦労を強いられている」といった内容のものだ。
その形態は様々で、ある時は家庭内での口論のコピペ、ある時は漫画のセリフ、またある時は全くの嘘(もしかしたら本当なのかもしれない)なのだが、多くの場合女性の方が理知的で、男性が幼児的な側面が強調されているように思える。
まず最初に思うのは、愛しているはずの相手に対してどれほどの憎しみを抱いているのだろうか、ということである。愛されているはずの妻にこんな憎しみを抱かれ、且つ多くの人間はその憎しみにある種の正当性を見出している。相手の男性の立場を思うと、自分もいつかそちら側にいるかもしれない、と、言いようのない悲しさや絶望感に苛まれる。
ただの愚痴、といえばそれまでかもしれない。ただ僕には、例えば居酒屋で夫の愚痴を言うのとはまた異質な、もっと黒く淀んだ大きな感情のようなものを見ている気がする。
そしてもう一つ思うのは、それを支持する大衆の恐ろしさである。
なぜそこまで、手放しにその憎しみを讃えることができるのか。ただの応援ではない、なぜ憎しみを増幅させる手助けすらできてしまうのか。先に声を上げた方が正しいのか。あなた達の批判、暴言、嫌悪を一身に受ける声無き相手の姿がそこには居るのではないのか。
銃の発明は戦争を大きく加速させた、それはその殺傷力故ではない、「命を奪う」ことの実感を限りなく希薄にしたことに起因する。
今僕たちはTwitterという、限りなく希薄な人間関係を以って、インターネット上で人を傷つけることへの感覚が麻痺しているように思える。しかし、インターネット上で傷つけられる感覚も比例して麻痺しているのだろうか。そんなことはないはずだ。
下がり続ける傷つける側の閾値、それは希薄な人間関係に依るものだけではない気がする。その原因を考えようとする姿勢を持つだけでも、少しは優しくなれるかもしれない。