文字で出会うあなたと
今日、Twitterを初めて以来初めて、全く知らない人のツイートを見て嫌な気分になり、Twitterを閉じた。
今までであれば、むしろ嬉々として、そういったツイートとそれに対する反応を見て楽しんでいた。世界にはこんなに愚かな人もいるのか、こいつらは何と闘ってこんなに困憊しているのか、愉快だなあという気持ちで。
そういった楽しみには中毒性があった。まず①マウントを取れること、次に②いくらでも次のネタが流れてくること、この2つが主な原因であると思う。
様々なツイートが流れてくるが、例えば最近では、飲食店のアルバイトが店の裏でふざけて食品を粗末に扱う動画がかなりバズっていた。食べ物を粗末にしてはいけない、また仲間内だけで楽しんでいるだけのつもりでもインターネットに上げればいくらでも拡散されるという想像力のなさ、その後に取らなければならない責任の重さ、いくらでも叩く余地のある動画だ。それ故に安心して叩けるし、叩かずとも、こいつらは馬鹿であると、心の内で思うことができる。言い換えれば、マウントを取れる。
マウントを取ることは、自分よりも下の存在を見つけ、自分はまだまだマシな方だという安心感に包まれる。心の安寧を保つ行為であるという側面は確かにあると思う。
しかし、結局のところそれらは相対的な価値観である。人の優劣などそんなに単純に決まるものではない、ましてや優劣などあるのだろうか。日本だけでも1億という想像もできないほどの人間で溢れているこの世界で、いちいち自分の中で相対的な優劣をつけることなど、なんの意味も持たない。それが見ず知らずの相手になされているのであれば尚更である。
偉そうなことを言っているが、自分もマウント中毒者の1人である。そして悲しいかな、自分と同じような症状の人間は数え切れないほどいる。
その証明として、Twitterにはそのような「安心して叩ける」ネタが、昼夜問わず流れ続けている。先生を殴る生徒の映像、中身のないことを言う政治家、矛盾だらけのフェミニストなど、枚挙に暇がない。おかげで我々マウント中毒者は、Twitterを開けば安心して新しい馬鹿を見つけられる。
そんな僕が初めてそんなツイートを見て嫌な気持ちになった。すぐに閉じたので内容はよく覚えていないが、日本人がどーたらと批判する日本人の女性のツイートだった気がする。どちらかと内容というより、「批判」とそれに対する「共感」という部分に嫌悪感を感じたのだと思う。
内容自体に嫌な気持ちを抱いた部分もあるだろうが、どうして今更そんなことに気持ちが揺れたのだろうか、と思ったが、白饅頭さんのノートを読んでなんとなく答えらしい文を見つけた。9月の最終記事であったその記事は、こういう一文で締めくくられていた。
「かっこよくなくてもいい。生産的でなくても、建設的でなくてもいい。スマートでなくていい。また明日を生きていける、それだけでいい。そしてまた、できたら来月も、17時にこの場所で会いたい。どうか、来月もご安全に。」
言葉や文章は、ただの視覚情報でしかないが、それは発した人間と、それを読む僕たちのインターフェースである。言葉や文章はそれを通して人と出会うことなのかもしれない。
たとえ知らない相手であったとしても、その人の憎しみが込められた文を読むことは、その人の憎しみと知らず知らずに向き合っているということだろう。
Twitterで知らない人間の憎しみや、馬鹿な行為への軽蔑、それらを無限に吸収し続けるうちに、僕たちはいつのまにか心が疲れてしまっているのかもしれない。たまには携帯から手を離して、ゆっくり猫でも撫でて、タバコでも吸って、コーヒーでも飲んで、ゆっくり過ごしていければいいなと思う。
そしてもし良かったら、僕の文をよんで僕と出会って、ゆっくりした時間を過ごしてくれれば嬉しい。