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「配慮」に潜む悪魔

石川優実氏と青識亜論氏のフェミニズム討論会があったらしい。

僕は個人的には所謂アンチフェミ側だと思う。twitter上に跳梁跋扈するツイフェミ供は全員社会に出て来て欲しくないし、消滅して欲しい。

しかし、自分がいつから、なぜそんな気持ちを抱き始めたのか、そう問われると即答できないような気がする。

その気持ちの根源を、石川氏と青識氏の討論を通して考えられた気がするので、読んでくれる方への説明という形を取りながら、自分の気持ちを整理していきたい。

また、僕自身は討論会には参加しておらず、twitter上での「こういう発言があったらしい」という情報を元にするため、そのソースは信頼性の低いものであるということを事前に書いておく。

発端は、討論内での石川氏の発言である。

「差別を受けてきた属性に対する表現の配慮は必ず為されるべき」

「規制ではなく、配慮」

この発言について受けた感想は、2つある。

1つ目は、石川氏側の気持ちについてである。この世界には女性差別や女性を抑圧するものは確かに存在し、その点からこういうことを言いたくなる気持ちというのは、その主張の正当性自体は置いといて、理解できるという点である。

2つ目は、それにしても、この方法はどうしようもなく卑怯であると感じる点である。

なぜ、「規制」ではなく「配慮」なのか。

この「配慮」とかいうやつ、一見優しい言葉に見えるが、卑しい悪魔の常套文句である。それはなぜか?

まず今回のケースで考えてみる。そもそも規制と配慮は可分なものか、そんなことはない。

いくら「女性は今まで差別されてきて本当にかわいそうだね、涙がでる😭😭😭」とか言ったところで、それを行動に移さないことには意味がない。

つまり、配慮した先には表現の自主規制がある。

そう、"自主"規制である。

「規制」と「配慮」ではなく、言ってみれば、「他主規制」と「自主規制」の話である。

まずここが、「配慮」という言葉が卑怯な点である。規制じゃないですよ〜と、いかにも歩み寄っているかのような顔をしている。

石川氏がそれを認識しているのか、認識せずしてこの言葉を使っているのかはわからないが、配慮を規制でないと言うのは単純に嘘をついていることになる。

ちなみに他主規制なんて言葉はない。Googleでは出てこなかったが、意図が伝わればなんでもいい。

そもそも規制とは何か。簡単に言えば法律のような強制力を持ったルールのことであり、それらは何らかの権力によって施行される。法律であれば国が権力であり、校則であればその学校の経営者が権力である。

権力を持つとはどういうことか、簡単に言うと「ルールの範囲を決める力」と「破った者を罰する力」である。

ただ、自主規制において、この「ルールの範囲を決める力」という部分は実のところ結局他者に依存する。

例えば、最近大火災を起こした宇崎ちゃんの献血ポスターだが、もし作者が「いや、本当は胸元のボタン開けたかったんですけど、気を遣って首までボタン閉めたんですよ!!」と言ったら火災は鎮火していただろうか?ということを考えれば答えは自明である。

女性蔑視である、私たちは傷ついたと訴え、より規制を促すことでルールの範囲を拡大していく。

権力の所在が個人にあり、弱いからである。

権力の所在が明確で強大であり、そこが定めたルールが施行されれば、規制の範囲に対して権力者以外が影響しようとする力は等しくなる。

しかし、権力の所在が個人であれば、一気にその力は弱まり、宇崎ちゃんポスターのように、どんな人でもその被害を訴え、規制を促すということが可能になる。

そしてその規制の限度は、ない。無限に規制をさせることが可能なのである。

ここで、「ルールを破った者を罰する力」は他者にはないのだから、そんな訴えは無視してしまえばよかろう!という考えの人もいるだろう。

確かに、自主規制であれば、権力自体はこちらに存在することになっている以上、誰も公に誰かを罰することができない。

そしてそれは、裏を返せば「刑罰にいくらでも口を出して良い」ということである。

権力の所在が強大であれば、たとえ被害者であっても、その刑罰に口を挟むことはできない。それは権力者の仕事だからである。

しかし、自主規制ということにしておけば、いくらでも刑罰に口を挟むことができる。飲食店にクレームをつける人は山ほどいるが、法律にクレームを言う人はいない。

それらが最終的に行き着く先、それは私刑である。

恐らくこの点が、感情の振れ幅が大きく他罰性が高い、というツイフェミ達との相性バッチリだったのであろう。(逆もまた然り、卵が先か鶏が先かって感じ)

平等な規制、平等な刑罰より、己の感情の捌け口である方が都合がいいのだろう。

ツイフェミの肩を持つわけではないが、これはほとんどの人がそのような性質を持っている。事実、飯塚幸三氏の裁判の結果には多くの人が納得せず、より大きな罰を求める署名が集まった。私刑を求める声である。

ここまで言えば、どれだけ「配慮」という言葉が卑劣なものであるかわかっていただけただろうか。

表現の自由に対して、「規制」でなく「配慮」を推し進めること、それは表現の世界で私刑を認めることであり、際限のない規制地獄が待っているということだ。

これは現実世界でも同じである。繰り返すが、一見強制力のない「配慮」という言葉は、責任を負わずに他人のリソースを食いつぶさんとする卑怯者の常套手段である。

そしてその強制力は、弱い人、心の優しい人、誠実な人ほど強く作用する。

卑劣極まりない、吐き気がする。

まとまりのない文章で申し訳ないが、これで今回の討論から自分のアンチフェミたる根源の一部を解き明かしたよ、ということにしておく。

少しでも、優しい人たちや誠実な人たちばかりが損をする世界が変わっていってほしい。自分はたいそうな人間ではないが、この気持ちは本物である。


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