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花が咲いたら
ほとけのざがあちこちで咲いている。
幼いころ、その小さな桃色の花を摘みとって、よく蜜を吸っていた。
田んぼの畔にいちめんひろがるほとけのざの、ぷつぷつ点々とした桃色を見ると、自然に指が吸い寄せられてぷつんと摘みとり口に含んで甘い蜜を吸う。
だいこんの花、と呼ばれていた紫色の花大根の蜜もおいしかった。それからつつじ。さつき。大ぶりな花は蜜の味も大ぶりで、口に含んだとたんぱあっとひろがる。もうこの味を覚えてしまったらほとけのざの小さい甘さに戻れなくなりそうな気もするのに、まったくそんなことはなくて、小さな花の、濃縮した甘さは忘れなかった。毎年春が来るたび畔に桃色の小さな点々を見つけては、ふらふら寄ってゆく。
蝶とか、そういうのと、あんまりかわらない感じだった。
おいしくて吸ってるというより、楽しくてやってるというより、もう花が咲いたら、自然な行動としてふらふら寄ってしまう。萌えはじめた蓬の若葉と、ぬくみはじめた土の香り。川床を泳ぐ魚の水草とじゃれあうような音、しっとりした風の撫でてゆく肌ざわり。
花びらや草、土や風と、そんなに変わらないものとして、生きていたころのこと。
そんな、花の蜜を吸うような時間のことを、思い出している。
散歩中の犬がひっかけるからほとけのざの蜜なんて吸わないほうがいいんだぜ。小学生のある時期、そう言われたころから花びらや草木と、自分のあいだにすきまが大きくなってきた気がする。
なんにも考えずにふらふら蝶みたいに吸い寄せられてゆくことはなくなり、あの花のあたりで起きた犬たちとの出来事、いま起きていないそこにない時間のことを思うようになり、また、いまだに花の蜜を吸うようなことをしている姿を、だれかに見られるということの意味などにも、気づくようになった。
だんだん離れていった花たちは、毎年きれいな桃色の小さな花をつけ、そのうち咲いていることにも、目を向けなくなっていった。
あの、花の蜜を吸うような時間は、どこに行ったのだろう、と思う。
たしかにあった、花びらや草木、土や風、川の流れと空のめぐり、そういうものと境い目なくつながっていたような時間は。
道ばたでまた今年も背をのばし、目に映えるような桃色の花をつけるほとけのざがいくつもつらなって咲いているのを見ていると、あの時間は決してどこかに行ってしまってはいない、と思う。
こうして花が咲けばまた吸い寄せられるように、蝶のようにふらふら舞ってやって来る。そしていつでも花のまわりで遊んでいる感じがする。
たぶん、私のかつての時間だけでなく、たくさんの小さな魂たちが、そうしているのだと思う。花のまわりを舞うように、ひらひらそこでゆれている。
花の蜜を吸うような時間たちが。
あたたかい春の日差しを浴びた花たちのところには、そういうものがいまもひらひら舞っている。それは私のなくした時間でもあるけれど、でも決して消えてしまった時間ではない。仮に私がいなくなったとしても、花の蜜を吸うような時間は、また春が来るたび、蝶みたいにひらひら舞っていると思う。そして、おなじようなちいさな命たちを、そっと呼んでいるかもしれない。いっしょに蜜を吸おうよ、とか、いっしょにこっちで、あそぼうよ、とか。
花のそばにいると、そういうかすかな響きが聴こえてくる気がする。