新しくなる
noteをはじめて、1年がたちました。
自分のために、書くことをはじめてみようと思った日のこと、よく覚えています。
なんでもないある一日に、「信じる」という言葉が本や、歌から届いて、それがなぜかとても響いて、こわごわとですが、noteをはじめることにしました。
文章はずっと書いていたのですが、表に出すのがこわくて、人に見せることもしなくなっていました。でもどこかで、ことばの力を信じたい気持ちがあったのだと思います。
すぐに口をつぐんでしまったり、沈黙しがちなわりに、書きだすと長い文章をたくさんのかたが受けとめてくれて、ときにはことばをかけてもらえて、ほんとうにうれしかったです。
かかわりかたがまずいせいでご迷惑をかけたことも、たくさんあったと思います。いま思い返しても胸が痛くなるようなこと、いくつもあって、9月にはまた、ことばを発することも、かかわることもできなくなって、結局とじこもってしまいました。
でも季節がめぐって、noteをはじめたころとおなじ、ハナミズキの葉が赤茶色になって、木々が赤い実をつけてゆく。
部屋でひとりふとんのなかに閉じこもっていてさえ届く、枯葉が道を転がるからからという音、窓から窓へわたる澄んださらさらの風。とざしていても、届くものがあるということ、しんしんと感じました。
長く書いていないあいだに届くスキの通知とか、過去記事を読んでくれた通知とか、ひとつひとつがうれしかったですし、たとえかたちにはならなくても、そっと見守ってくれているまなざしも、きっとあったのだろうと思います。ほんとうに、ありがとうございます。
noteをはじめたころに書いた「書くということの根っこにあるもの」という記事のなかで、自分のなかには「かなしさ」がある、ということを書きました。書くという行為をさせるおおもとにあるのは、私にとっては「かなしさ」だと。
もともと日本語の古語の「かなし」には、「悲」や「哀」だけではなく、「美」や「愛」といった漢字もあてていました。悲哀だけではなく、愛惜、いとおしむ気持ち、深く心惹かれるさまのことを「かなし」といいます。
「かなし」という言葉は、悲しさ、哀切さ、慯み、憐憫、いとおしい気持ちや、はかなさへ寄せる想い、か弱いものを慈しむ気持ち、美しさや、愛、そういったものすべてに行き渡ってゆく。
この記事を書いたとき、自分のなかにあるかなしさをどうしたらいいのかわからなくて、それで書いていたような気がします。
でも1年、noteをつづけていま感じるのは、かなしさの色あいが変わってきた、ということです。悲哀はもちろんあるのですが、それより美しさや、愛しさの割合が高くなってきた気がします。
1年つづけて気づいた、日々の美しさ。道ばたに生きる草花の愛おしさ。かかわるすべての人たちへのやわらかな想いとか。
からだの具合はやっぱりよくはなくて、どんなに気をつけていても、突然来る波に抗えないときがあります。そういうときはもう海の深いところまでもぐるようにして、貝みたいにじっとしているしかない。自分と人を守るためにそうする以外にないとき、どうしてもあります。
でも深い海の底にもぐってふと外に出て、見える景色は、やっぱりきれいです。
秋の野原をこどもたちが夕暮れどき遊んでいて、斜めから射す金色の光がすべてのかたちをやわらかくつつんで、手にとった綿毛のたんぽぽに、つぎつぎ息を吹きかける姿も、ふわふわと舞う白い綿毛も、金色にそまってゆれて、からすのすうっと空を渡る姿も、たえまない笑い声の秋の空気にとけてゆくのも、信じられないくらいきれいで、私はここにある美しさに気づくために、病むのかもしれないとさえ思いました。
そしてそういうものを届けられるならどれだけ病んだっていいな、と思うのですが、生きてゆくのが大変なので、いまはすこし強めのお薬を飲んで、ふつうに暮らしています。
それでも病む目で見た鮮烈さは失われても、世界はやっぱり、きれい。
新しくなろう、と思いました。
いままでまとっていたものを脱いだり、しなかったことをしてみたり。これからは、変わってゆくことを楽しんでいきたいな、と思っています。
とりあえずすこしだけでも運動しようと、ヨガをはじめました。(楽しかった…!)
あと、カメラ、やっぱり買おうと思っています。
写真を突きつめようとかいう思いはまったくないのですが、私は定期的にことばを発するのがこわい病に罹患するので、そういうときでもべつの表現のかたちがあるといいな、というのもあって。
以前あるクリエイターさんとお話したときに伝えたのですが、沈黙も、私は立派な表現だと思っています。
いままでかかわったかた、こういうこと書いてたなとか、こういうやりとりしたな、みたいなことわりとよく覚えているのですが、いま書かれていないかた、アカウントごと消されたかた、それは沈黙という表現をしているのだと思って、ときどきその沈黙に耳を澄ませています。その豊かな音色を折にふれて想っています。
沈黙もふくめ、どんなかたちであれ、やっぱり表現をすることは尊いし、それを受けとめて、気持ちを伝えることのできる場があるって、かけがえのないことだなと思います。
noteという場に出会えて、ほんとうによかったです。
だいぶマイペースにはなると思うのですが、これからもすべての表現に敬意をもって、大切に受けとめてゆきたいです。
そしてまた、私も新しくなって、また新しい表現をしていけたらいいなと思います。
長い長い文章を読んでくださり、いつもほんとうにありがとうございます。
ここでお会いできたこと、心から感謝しています。
すこやかな日々と、その美しさと、やわらかなかかわりがあなたのそばにありますように。