好きの周辺
人はほんとうに変わってゆくものだけれど、いっぽうで小さいころから変わらない部分も、きっとあるのだろうなと思う。
私は友だちと遊ぶことも好きだったけれど、どちらかというとひとり遊びが好きで、よく野原や畑、竹やぶで草木にふれながら遊んでいた。ぼうっと西の空を見ていることも多かったし、家のなかで物語を読むのも好きだった。
大人になってひとりふらふら散歩したり自然を眺めたり、本を読んだり、内実がすこし変わっていてもおおまかに見れば、変わってないな、と思う。
幼稚園のときにお弁当を持ってこないときはパンが買えた。毎週月曜日はチョコパンの日でその日はいつもパンがいいと母に言っていた。学生時代にいちばん好きだったのは、大好きなパン屋さんでパンを買ってカフェラテも買って木々のたくさん立ちならぶ広い公園で食べること、そして借りてきた本を読むこと。いまでもよくお昼はパンを食べる。いまだにアンパンマンパン(中身はチョコ)とか平気で買う。
子どものころ浜辺に行くと角のとれたガラス片をたくさんあつめて小瓶に入れて机のそばに飾っていた。ちいさな香水の瓶、だれかのおみやげの小指ほどの涙壺、ミニチュアの浮き玉。ガラスのものにどうしても心が惹かれる。
自分で働いたお金で、うすはり、というとても極薄の繊細なコップを買った。使うのがこわくてずっと飾って眺めていた。
心身を壊してじょうずに話ができなかったとき、臨床心理士さんに、あなたは何が好き、と聞かれて返事が出来なくて、ガラスです、と答えた記憶がある。どういうことをしているときが楽しいかとか、なにをしたいか、という意味の質問だったため彼女はとても困っていた。
え?……ガラス?
はい。うすはりっていう、ガラスがあって。ものすごくうすくて、割れそうな感じで。でもほんとは、けっこう強度があるんです。
あ…そう。そうなのね。
……はい。
うん…えっと…。…ガラス、好きなのね。
好きなんです。
この会話いま思い返しても穴があったら入りたいほど恥ずかしいけれどでもそのときの私としてはまじめに答えたつもりだったし、ガラスが好きな気持ちを受けとめてくれたあの女性のやさしさだけはちゃんと受けとれた。
あの時期、自分がなにをしたら楽しいかとか、なにをしたいかとか具体的な行動なんて考えられなかったし、会話自体がじょうずにできないなかで、相手の意図が汲み取れないまま、それでも好き、ということばの周辺を手探りしていて探しあてたのは、幼いころから好きだったガラスだった。
ガラス製品をつくるのが好き、とか、ガラスを集めたい、とかじゃなくて、ただ、ガラスが好き。
でも実は、そういうことがいちばん大事なのかもしれない。
なにをしたいとか、どういうふうになっていきたい、とか、意志にかかわることなんてひとつも見えなくなっている暗闇のなかでも、好き、というものの周辺にはたしかになにかがある。理由なく心惹かれてしまうメカニズムは解明できなくても、それが好きであった時間のこと、それにふれて大切に思っていた記憶、失くして悲しかった感情、そういうひとつひとつが深いところで自分を守っている感じがする。
好きにまつわる積み重なった経験は、繊細な力で、でもたしかな強度をもって人を支える気がする。
それをなにかに活かすということではなくて。(もちろん活かせたらそれはそれで素敵)
西の畑から夕暮れを見ていたことや、竹やぶのなかでささめく音に耳を澄ましたこと、家の縁側でずっと本を読んでいたこと、パン屋さんでアンパンマンパンをかならず選んでいたこと、浜辺のガラス片をひとつひとつ手のひらに拾ったこと。好きの周辺にあるちいさなかけらたちが、自分を支えているのだと思う。
これからなにをするにしても。
それを活かした作品をつくるとか、仕事にするとか、かたちのあるなにかにつなげなくても。
ほそい糸をたぐるようにして、ちいさいころからくり返してきた「好き」をたどって、好きの周辺にある記憶を思い出せたら、ときに壊れかねない自分のかたちをもういちどやさしく包みこむことができるんじゃないかな、そう思って、しずかに手をのばしている。
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追記
最近、書くことに対して気負いすぎてたな、と思いました。もともと「好きなものを残したくて」「大事なことを思い出したくて」はじめたnoteでした。自分のために。
初心にたちかえって、好きなものづくしで記事を書きました。
好きなものつらつら書きながら、でもやっぱり思ったのは、好きの周辺には、なにかあるな、ということです。壊れそうなときも、ちゃんと包みこんでくれるやわらかな力が、そこにある気がします。それを思い出したかったのかもです。
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