とりもどす時間
こんにちは。
ひさしぶりの更新になりました。
今日は、そのあいだの日記のようなものです。
6月某日
また体をこわした。
仕事を休んで、横になってすごす。
なんどもこわれているから、このこわれかたは日常生活をとりもどすのにひと月はかかる、とわかる。
仕事も、書くことも、継続してがんばっていこうと思っていた矢先だった。また長く働けない。
布団のなかで、なんども泣いて、ひとなみでありたいという気持ちがやっぱりどこかにあったことに気づき、それを拾いあげて、手放す。
6月某日
動けるようになったので外に出た。おひさまを浴びる。
誰もいない林のなかを歩く。木々のあいまに隠れる池のほとりでたたずむ。あめんぼたちのつくる水紋を眺める。
梢からぽとりと落ちた枝が水面でぱしゃん、と音をたてた。
命のいとなみの音。だれかの耳に響くことのない、こういうひそやかな音がいったいいくつあるのだろう、と思う。
帰り道、矢車菊が咲いていた。
6月某日
今回は頭もこわれてしまったので、読み書きがうまくできなくなった。熱があるときの頭の感じ。ずっと頭にもやがかかっている。
本を読んでも、どんな情景なのか、なにを言っているのか、ぼんやりとしてしまって、うまく像が結ばない。ぼんやりとはわかるけれど、ほどけてすり抜けてしまう。
それでもやっぱりなにか読みたくて、ヴァルザー=クレー詩画集を読む。
元気なときは、あまりぴんとこなかった。でもいま読んだらとてもよかった。意味はよくわかっていない。でもことばにゆっくりふれて読む。ことばのてざわりを感じとる。点字に指をあてるように。意味がぼやけてよくわからないぶん、てざわりが伝わってくる。やわらかい。
横になってうとうとしながらことばにふれていると、うたたねの夢のなかにもことばの世界がひろがる。湖みたいにひろがったゆらぎのなかにとぷん、とからだをひたす。
ヴァルザーの詩は、やわらかくて、しずかなぬくもりがあって、そしてとてもさびしい。
6月某日
今日もよく歩く。
道端や、畦、空き地など、あちこちにヒメジョオンが咲いている。
きらわれることも多い植物だけど私は好きだ。きれいだし。
白いちいさな花をたくさんつける姿。大きなかすみ草のようで。あなたが咲いてくれると、風景ぜんぶが花束みたいになる。
かすみ草。かすむ。かすむから、きれいに見えるのだろうか。
6月某日
奥山由之さんの写真集を見る。
花にピントのあわない花の写真集。
亡き祖母がひとりで暮らしていた家で、花の写真を撮る。花を介して祖母と対話するように、かつてあった時間や、そこにいた存在、その声を聴くように、またそれに語りかけるように、1枚1枚撮られてゆく写真たち。
古い写真みたいに、絵画みたいに、ぼやけた光景。
ピントは花には合わない。
まなざしは、いまここにあるものだけに、焦点をあわせているのではなくて、たぶんちがうなにかを見ている。
ぼやける。
かすむ。
遠ざかる。
だからこそ、べつのなにかが浮かびあがってくる。
ふだんは見えなかったもの、聴こえなかったもの、でもたしかにそこにあるもの。ちいさな命の、たしかな営み。
奥山さんの写真集にふれると、いつも自分の根源的なものをゆさぶられる感じがある。
忘れていた感覚を思い出すような。
こういうことを、いつか私もできるようになるだろうか。
ことばで、それをたんねんに織ってゆくことで、知らず知らずのうちに忘れてしまっていたものを、思い出すような、そういうこと。
noteにはじめて書いた私の自己紹介文はこういうものだった。
大切なものを憶えておくため、あるいは、大事なことを思い出すために書いています。
私はなにかを思い出したいのだった。
それはたぶん、ふつうにすごしていたら感じとりにくいもの。
風の色。記憶の香り。聴こえない声。ことばのてざわり。ちいさすぎて、気づけない、でもたしかにそこにある存在。それが世界に投げかける波紋。とか。
立ちどまって、ぼんやりして、とりもどしたのは、そういうものたちに向ける、小さなまなざしでした。
………..
追記
突然の体調不良だったため、ご挨拶もできずにお休みしてしまい、そのあいだ記事を読みにうかがえず、すみません。
立ちどまったことで、自分のあり方などを見直す時間にもなりました。至らなかったことも、たくさんあったと気づきました。
頭のもやは、だいぶ晴れてきました。読むほうはかなり回復しました。でも書くほうは、まだかかる気がします。書くときのもやがまだ濃いです。
からだの具合も、万全ではなくて、まだまだ寝込む日もあります。
コンスタントに投稿することは考えず、いまはできることを、できるときにやれたらいいなと思います。
それでも読むことは好きなので、げんきなときはみなさまの記事を読みに行きますね。
とつぜんパタリと音沙汰なくなるかもしれませんが、「あ、倒れてんのね」「休んでんのね」と思ってもらえたらうれしいです。そういう体質の、通常運転なのでご心配いりません。そのうちまた戻ります。
頭がこわれて、読み書きがおぼつかなくなったことで、表現をするという行為がどれだけ当たり前でなくて、尊いことなのか、かみしめました。
すべての表現に敬意をもって、これからも大切に読ませていただきます。
そして、いつまでできるかわからないからこそ、できるうちに、書きたいとも思っています。できなくなったことがたくさんあるし、舞い戻ったように頭のもやが濃くなるときもあるのですが、だからこそ見えるものもあるし、いまだからできる表現もある気がします。状況を素直に受けいれて、楽しみながら、生きてゆくつもりです。
これからもどうぞ、よろしくお願いします。
(おまけ)
虹色がかった、羽のかたちの雲を見ました。
いいことありそう。
みなさまがしあわせでありますように。
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