日々は泡
ときどき海の夢を見る。
青くてしずかな海。とぷん、と行くときもある。
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泳ぎたいな、と思って、水につかった。
水はやわらかくて、水泡がゆらゆらとのぼっていって、魚のようになって泳いだ。
水のなかにいると、お腹のなかにいたころとか、生まれるまえのこととか、魚だったことをうっかり憶い出しそうになる。
存在の深いところで相手を呼んでしまう歌。私も一介の水泡だと思う。
水のなかは、夢のなかと似ている。
やわらかくて、あいまいで、とけそう。水につかったままのような気持ちで、泳ぐように日々をすごす。
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声を出すことができなかった日、絵の教室で黙々と、絵を描いた。
見学に来た人が、私の淡い絵を見て、「あぁ、水彩で、ここまでできるんですね」と小さく声を出した。
じょうずな返事ができなくて、うまくしゃべれなかった。もう会えないかもしれない。寂しい目をした人だった。
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臨床心理士さんの話をゆっくりと聞いていた。ふふ、と笑って
「で、千紗さんはいつカウンセラーになるの」
と言う。ほほえみ返して、むりですよ、と答える。
「たぶん私、ゆれてしまうので」
「ゆれてしまうのは、悪いことではないのよ」
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フィルムカメラの現像が返ってきた。
どれもこれも、ピントがぼけていた。水のなかとか、夢のなかとかみたい。
ときどき記憶がとぎれることがふえた。新しいことを、あまり覚えていられない。頭のなかがかすんでゆく。
家族と会った日、ほとんどのことを覚えていなかった。昨日私は大丈夫でしたか、と聞いたら、にこにこしてたよ、と言っていた。
いろんなことが、わからなくなってゆく。
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眠れなかった夜明けまえ、鈴の鳴るような鳥の声が聞こえた。りん、りん、としじまに響く。東の空に光るオリオン。夢より夢のなかみたい。
上司が朗らかで、話をするのが楽しい。ずっとしゃべっていてくれるのもうれしい。頷きながら聞いている。
「自分の弱いところとか、恥ずかしくて昔は人に言えなかったよ。離れていってほしくないとか、頼りにされたいとか。認めたくなくて。でもだんだん、そういう気持ちを素直に、表に出せるようになったんだよね。年とったからかなぁ」
その晩布団のなかで、表に出さなかった気持ち、について考えていた。
手探りして、手繰りよせたのは、“だれかにとっての特別でありたかった” だった。身悶えするくらい恥ずかしかった。
あぁ、と思って、ため息といっしょに眠る。
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夢を見た。好きな人の家。たくさんの人がいた。
私は輪に入れないで、遠くのほうにすわっていた。彼のまわりでは会話がつづいて、楽しそうだった。
場の空気をこわさないように、私はひとこともしゃべらなかった。いてもいなくても変わらない。長い時間がすぎてゆく。
ことばを交わすこともなくて、そばにいることもできなくて、なのにどうしてここにいるのかわからなくて、だまって消えてしまいたかった。でも私はコートを着ていた。寒くないように、と彼が貸してくれたコート。脱げないまま、ただその布地を見つづける。
ほんのすこしだけかけてもらったやさしさにずっと縋っている自分は惨めだと思った。あなたにとって泡沫でしかない自分をまなざすのはつらい。見ないでいたかった。でももう、認めた。泡。あぁ、と思う。消えたい、とつよく願ったら叶った。目がさめた。
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さっきまでつかっていた夢からあがった波打ち際のようなシーツのうえで、夢のひいてゆくのを感じる。だんだん淡くなってゆく。彼がだれだったのかも、好きだったことも、悲しかったことも、しずかにうすれてゆく。
忘れることはやさしいと思う。胸の痛みもひいてゆく。いろんなこと、わからなくなってゆく。夜が明ける。朝焼けがきれいだった。
朝が来ること。ときがめぐること。季節がうつろうこと。しずかに淡くなってゆく。夢のなかのうたかたのような恋。痛みとか悲しみとか、近くにあったものは消えていって、遠くにあったものがかすかに残る。コートの肌触りのやさしさとか、あの部屋のしずかな空気とか。
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窓の外、桂の黄色い葉がゆれる。ハナミズキの実が赤くなっている。ゆっくりと自分の色になってゆく草木。私も自分の色になってゆきたい。
尾鰭の代わりに生えている2本の足にふれる。やわらかい、人間の肌。足の爪に秋の色を塗る。
森のなかを歩く。秋のにおいがする。
離れると夢がきれいに見えてくる。彼は元気にしているだろうか。あの部屋にやさしい雨とか降るといいなと思う。雨音の似合う部屋だった。