漕ぎだす
昔からどうにもならないときはよく水辺に行った。
海から遠いところに暮らしていたので浜辺に憧れはあっても実際やっぱり遠くて、川や湖が多かった。
なにをするでもなくただぼうっと水面のゆれるのを見たり、遠くの景色を眺めたりする。長い間そうしてひとりでたたずんで、とくべつなことはなにもなく、帰る。
ときどきは泊まる。水辺に宿をとって陽の巡りとともに色を変える水の色を見る。空の移り変わりと。木々の落とす影と。大切なことってあんがいなんにもなくて、目をとじようと私がいなかろうと、水は流れるし光はゆれる。そしてひとしきり眠る。起きて、ぼうっとして、帰る。
学生時代の友人に雰囲気も見た目も江原〇之似の男の子がいて、心の弱い女の子たちにとても好かれていた。たくさんの女の子の心のケアを担っていた。たしかに聞き上手で、相槌がとてもうまかった。
たたずまいがやわらかくて、どんな話をふっても全方位受けとめられる。達人みたいな人だった。
ときどき水辺に行くことについて、それはいいことだよ、と彼は言っていた。
「女性はね、自然からエネルギーをもらえるんだよ。男性はできないの。だからね、女性からもらうしかないんだよ」
そんなはずないだろう、と当時も思ったし今でも思う。
(いや、それとも…どうなんだろう…)
でも性別云々ではなくて、自分がじょうずに受けとることのできないものを、だれかから注いでもらいたい、と感じる気持ちのありかたについては理解できる。彼自身がたぶん、そうだったんだと思う。
ただ私はほんとうに、水辺でエネルギーをもらっているのか、というと、そうでもない気がする。
むしろいろいろなものが削げ落ちるし、なにかを失うし、なんならとても透明になる。なくすために行っているような部分もある。
水琴窟の音は、見えない地中のおおきな空洞のなかに水が滴りおちることで、響きわたる。なんにもないから、うけとめた小さなしずくがキン、とかろやかに鳴る。反響した音色の余韻を聴くのが好きで、みつけると長いこと聴いている。
できればそういうものでありたい。
なにかを得て漲ってまわりに注ぎつづけるというよりは、だれかのこぼしてしまったしずくをなんにもない場所に受けとめて響かせるような人に。
この前また水辺に行って、しばらくぼうっと湖を見ていた。
かつては海だった、いまは湖となったひろい水面のとおくまでつづくのを眺めて、昔ほどひたむきになにかを削ぎ落とそうとしなくなったな、と感じた。
わりとこまめに片づけているので、そんなに溜まらなくなっているのかもしれない。ぼうっと風の吹く湖面を眺めていた。
水鳥たちが叢からすっとおりてきて、ちゃぷん、と水に入る。
そのままならんで水を渡ってゆく姿を岸辺で見ていた。
漕ぎだそうかな、とふと思う。もちろんいますぐこの岸辺から水にじゃぶじゃぶ入っていくという意味ではなくて。比喩として。漕ぎだそうかな、と。
基本的には流れるにまかせるほうが好きで能動的に自分の立ち位置を変えようとはしてこなかった。でもなんとなく、漕いでみようかな、という気持ちになった。
そういうふうに感じたのはたぶん生まれてはじめてで、水鳥につられたというより、もう自然にそうなる動きをするだけじゃないかな、とわりあい躊躇なく淡々と思った。したいことをするというより、なすべきことを自然に行なってゆく。流れに仕える気持ちでたんたんと。
変わってゆくことをもうすこし肯定的に考えて、できることをひとつひとつやっていこうと思った。昔からそうだけれど具体的にやりたいことがあるわけではない。できることもすくない。でも毎日こつこつ、ものを磨いたり、掃除をしたり、落とし物を拾ったり、そういうことをひとりそっと、つづける。実際にも比喩としても。読んで、書いて、きちんと外にあらわしてゆく。誤魔化さず衒わず、真摯におこなう。
ちいさな水かきで毎日こつこつ漕いで、変わってゆこうかな、と思っている。
ほんとうに自然に、すっと水に入ってすべるように向こうへ漕ぎだした水鳥の姿に倣って、怯えや躊躇もなく、たんたんと漕ぎだす。なにかを得ようとか、なにかを保とうという気持ちは、もういいかな、と思う。いろいろ失いながらになるにしても、ちゃんとなすべきことをつづけたい。自分がなにかを失くすことで、だれかのこぼしたものを受けとめられる人になってゆきたい。
きちんと自分をひらき、こぼれおちたものを響かせて、そのしずかな音色に耳を澄ませたい。