まなざしの記憶
私のしていることは、落穂拾いみたいだな、と思うときがあります。
旧仮名遣いで書かれた、図書館の書庫に眠るような本のことを書いたり、遠ざかった記憶や、古い夢の話をしたためておくというのは、落穂拾いによく似ています。
もうみんなどこかに行ってしまって、いまはだれもいない畑にひとり残り、土のうえに屈んで、こぼれ落ちた穂をひとつひとつ、拾っている。
たくさんの人の糧をいちどきに手渡すような大きなこととちがって、だれかの糧になるのか、自分さえも養えるのかわからないような、こぼれた穂を拾うのは、世のなかの動きに取り残されているようでもあり、また動きつづける世のなかにとっての、担うべき仕事を受けもっていないということでもあり、かんたんに言えば自分自身が世のなかにとっての負担になっていることもわかっています。
でも毎日毎日、腰をかがめてどこにあるかわからない、こぼれ落ちた穂を探しては、拾っている。
なんのために、と聞かれたら、穂が落ちているから…、と呟くしかできない。穂のなかから聞こえる小さな声がまだそこにある気がするのです。
究極的には、それを私がする必要はないし、私である必要もないです。ただ私は、私として、手にふれた落穂を拾う、という行為を、たんたんと続けていくだけだと思って、いま、そうしています。
土のうえで小さなものを探しながらずっと屈みつづけていることは、目も腰も手も痛むことで、また拾うという行為自体にも、言いようのない痛みがあります。
こぼれ落ちた穂はガラス片のようなもので、扱いをまちがえれば、ふれたとたんにもろく崩れてしまうし、場合によっては自分がその切片で傷を負ってしまう。
慎重さと注意深さ、根気が必要で、きびしく自分のありかたを問いつづけないといけません。
それでもやっぱり、その小さなガラス片の放つかすかな声に耳を澄ませていると、拾いあげたい、という気持ちになります。
声を放っているから、ということもあるけれども、結局はそのガラス片が、きれいだからだと思います。
そのきれいな光を、もういちど空気に返したいのです。
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先日私の記事を読んでくださっている方が、私について記事を書いてくれました。
ひとりで落穂を拾う姿を、見ていてくれた人がいるんだ、ということが、なによりもうれしく感じました。
そしてその目線は、落穂を拾う姿だけではなく、その意義や、指にできた傷までふくめて見てくださっている感じがしました。
そういうことすべてにまなざしを向けたうえで、
それは必要なことなんだよ、と言ってもらえたようで、ことばにできないくらいうれしかったです。
iotoqさんが、ふだんなにをされているか、どんなことを経験してこられたのか私はなにも知りませんが、ほかの記事を読んでいると、ほんとうに本をよく読めるかたなんだな、という気がします。(量を、ということではなく)
ものすごくよく見える目をお持ちなのだと思います。そしてそれは、決していいことだけではなく、よく見えるがゆえの苦しさもあるはずです。
でも、そこにあるものへの深い洞察とともに広い視野をもち、やわらかく読んで愛をもってことばにしてゆく姿に、私もそうありたいな、と思いました。
そのように視野を広く、寄り添う深度をもち、ひとりひとりの人や、その人の描く物語に向きあってゆきたいです。
iotoqさんが谷川俊太郎さんの詩をもって表現してくださったようなこと、かみさまとしずかなはなし ができているか、自分としては正直、心もとないです。
でも、ガラス片みたいな小さな落穂が放つかすかな声にいつまでも耳を澄ませていたいし、それを聴きとれるだけのしずかな湖面を自分のなかに持ちたいと思っています。
これからもひとり、落穂を拾っていくつもりです。
そのなかにあって、かつて向けてもらったあたたかなまなざしの記憶はきっと体に刻まれて残り、痛む体を支えてくれると思います。
iotoqさんからだけでなく、私に対して向けてもらったまなざしをきちんと刻んで記憶して、落穂を拾いつづけようと思っています。
iotoqさん、言葉にして伝えてくださり、ありがとうございます。
そしてたとえ言葉にはしなくとも、まなざしを向けてくださるみなさま、ほんとうにありがとうございます。