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歳月を抱くこと


会津


福島に行った。早朝、気球を見に行くつもりだったけれど結局濃霧で気球は飛ばなくて、のんびり川沿いを歩く。田畑の続く農道は霧で真っ白だった。

霧たつ秋の、白い景色のなかに、野焼きのにおいがする。

ふるさとも霧が多かった。川や水路、田んぼ、水の豊富な湿地。
稲刈りのころはどこからか野焼きの煙が流れてくる。霧のなかを歩いて学校へ行った日のこと。刈り取りを終えた田の向こうに飛んでいた気球のこと。畑でとれたねぎをたくさんのせたお昼のうどん。

霧の立ちこめるなか浮かんでくる大切なかつての時間を抱く。年を重ねることは私にとって、愛しいものがふえてゆく過程だった。



神保町


学生時代からの友人と会う。
おいしいご飯を食べて、ゆっくり話す。
むずかしい局面にいる彼女の話を聞いたあと、いっしょに本屋さんをいくつかまわる。

論文を読んでいた学生のころも、社会人になってそれぞれの仕事で疲弊していたころも、ほんとうに、いろんなことがあったし、私も彼女も変わったけれど、気になる本もぜんぜんちがうけれど、すごく落ちこんでいたけれど、好きなものについて話すときのきらきらした感じがぜんぜん変わっていなくて、いつもその光をもらってきたなぁとあらためて思う。

またね、という前に「おいしいクイニーアマン買って帰るね」と私は話したもののぜんぜんあてがなくて、でもふらりと立ち寄ったパン屋さんにクイニーアマンがあって、林檎入りだったらうれしいなと思っていたらほんとうに林檎入りだった。
彼女に対して安易に「うまくいくよ」なんて言えなかったけど、そのとき、あ、大丈夫なんだ、と思った。直感的に。




ウィーン、ザルツブルク


ゼーターラーの小説を読んでいると、ザルツカンマート、という地名が出てきた。調べるとザルツブルクの近く。そこから主人公がウィーンへ出ていく話だった。

その逆で、ウィーンからザルツブルクに行ったことがある。
卒業旅行で、同級生が案内してくれた。オーストリアのことはあまり詳しくなくて、でもスワロフスキーの美術館は見てみたかった。透きとおって光るものが、昔から好きだった。

せわしない行程だったからかほとんどのことを憶えていなくて、あんなに行きたかった美術館のことも、言葉の響きに惹かれたザルツブルクの街も、なんにも思い出せない。憶えているのは、美術館から出たあと、バスを待っているとき見上げた空のことだけ。とても高くて、空気が澄んでいて、なんて広いんだろう、と思った。

ずっと好きで、でも長い間膠着状態になっていた人との関係性を、旅行のあと手放すことができた。憑きものがとれたようにさらりと。ずっと長いこと苦しかった気持ちもあっというまに遠ざかった。吹き流してくれたのはザルツブルクから向かったあの町の空気だったと思う。あの空。吹いていた風。救けてくれるのって、案外そういうものだったりする。


𓈒𓏸


風のなかには予感があって予感は未来から吹いてくる。大切な流れを感じたときにただふわりと乗ってみる脚力さえあれば、私はきっと大丈夫なんだと思う。

最近はなるべく流れを自分でせきとめないようにしている。
注がれたものを受けとることや、そしてまた還流すること。
自分のなかから流れてくるものも。なるべくせきとめない。行きたいと思ったところに行くこと、会いたい人に会うこと。
予感のほうに向かって素直に心をひらいて、ゆっくり丁寧に、愛しい歳月を積み重ねてゆきたい。


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