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【講道館が最も恐れた男】田辺又右衛門の生涯
みなさんは、日の出の勢いだった嘉納治五郎の講道館柔道にたった一人で挑み続けた天才柔術家・田辺又右衛門をご存知でしょうか?
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田辺は、講道館が柔術各派を圧倒して勢力を拡大していく中、講道館の強豪たちを次々撃破し、“講道館が最も恐れた男”と称されました。
今回は、様々な柔術の流派が「柔道」に統一される以前に講道館に挑み続けた、天下無双の寝技師・田辺又右衛門の生涯を解説します。
【生い立ち】
田辺は1869年に、不遷流柔術の使い手・田辺虎次郎の長男として現在の岡山県倉敷市に生まれました。
父・虎次郎や、同じく不遷流柔術の使い手である祖父から柔術の手ほどきを受けた田辺は、1882年(明治15年)に13歳で初めての試合を行います。
田辺の最初の試合は、地元の小さな村で行われた柔術大会でした。
まだ13歳にもかかわらず、大きな男と闘いたいと訴えた田辺は、相撲取りと対戦します。
寝技に引き込むなどして善戦しましたが極めきれず、この試合は引き分けに終わりました。
田辺はいつも、自分より体格が大きく強そうな力士との対戦を望みました。
また、田辺は投げ技よりも寝技を得意としていました。
これは、投げ技では審判のさじ加減で技の効果が認められない場合がありますが、寝てからの極め技は相手が降参の意思表示をする事になり、明確に決着がつくためです。
17歳の時、田辺は神田川という力士と対戦します。
神田川は体格が田辺の2倍ほどある巨漢で、あまりの大きさに田辺の技が極まらず、田辺はついに敗北を喫しました。
この敗北を機に田辺はさらに鍛錬に励んでいきます。
【講道館との激突】
1890年(明治23年)に上京した田辺は、腕が認められ、21歳で警視庁の柔術世話掛となりました。
その後、田辺は久松警察署の柔術世話掛・戸張瀧三郎と闘うこととなりました。
戸張は、講道館を代表する猛者で立ち技も寝技もこなせる強豪です。
前半は体格で勝る戸張が強引に襲いかかりますが、戸張の体力が切れたところを見計らい、田辺が絞め技を極めて勝利しました。
この頃、嘉納治五郎率いる講道館は日の出の勢いであり、不遷流など他流派の柔術家は日陰に追いやられつつありました。
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そのため、講道館の戸張を下した田辺に、他流派の柔術家たちは一様に拍手喝采したとされます。
翌1891年(明治24年)、警視庁の月例試合で講道館の山下義韶と対戦しました。
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山下は、後に講道館史上初めて十段の段位を授与され、「講道館四天王」の一人に数えられる猛者中の猛者です。
その山下を相手に、田辺は終始試合を支配し、最後は絞め技を極めて勝利しました。
この敗北を機に講道館は極力寝技を排除し、現在の「柔道」に繋がる統一ルールの制定に進んでいきます。
一方、田辺へのリベンジに燃えていた久松警察署の戸張瀧三郎は再試合を要求し、2人は再度闘うこととなりました。
再試合でも田辺が戸張を締め上げて勝利し、返り討ちにしました。
どうしても田辺に勝ちたい戸張は、翌1892年(明治25年)、もう一度田辺と対戦しますが、この試合でも絞め技で田辺が勝利しています。
ただ、この頃から講道館側の人間が不利になると引き分けとなったり、講道館が他流派との試合をできるだけ避けるようになっていきます。
【大日本武徳会】
1895年(明治28年)4月、京都に大日本武徳会が結成されました。
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武徳会は武道の奨励、武徳の育成、国民の士気向上などを目的として結成された組織です。
武徳会の主催する大会は武徳会に入っている者全てが参加できるため、講道館の人間との試合も行われました。
1898年(明治31年)1月、田辺は京都にある武徳会本部道場で講道館の磯貝一と対戦します。
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磯貝は武道専門学校の主任教授で、後に講道館十段に昇進する実力者です。
この試合は終始田辺が圧倒しますが、最終的に引き分けとなりました。
そして、この年の春に田辺は講道館三段の広岡勇司と対戦し、1分ほどで勝利を収めます。
翌1899年(明治32年)5月、京都武徳会本部の大会で、田辺は再び磯貝と対戦することとなりました。
この大会は大日本武徳会総裁である小松宮彰仁親王の御台臨もあり、厳粛な空気の中行われました。
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しかし、田辺が得意の寝技で攻めていたところ、審判の佐村正明に中断され、急遽引き分けになるという不可解な決着となりました。
ちなみに、田辺と磯貝は複数回対戦し、全て引き分けに終わっています。
講道館の勢力は大日本武徳会の中にも浸食しており、「一大勢力となった講道館とそれに歯向かう他流派の田辺」という構図となっていきました。
【“講道館が最も恐れた男”】
講道館に屈する他流派の武道家も出てくる中で、田辺は講道館に抗い続けました。
「講道館四天王」の一人に数えられ、「鬼横山」の異名を持つ実力者・横山作次郎や、同じく「講道館四天王」の一人で小説『姿三四郎』のモデルにもなった西郷四郎は、田辺との対戦を避けたと言われています。
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一方で、1900年(明治33年)、田辺は横山作次郎の愛弟子で後に講道館十段となる強豪・永岡秀一と試合を行います。
この試合の審判は佐村正明が行いました。
佐村は、田辺が磯貝と対戦した際、寝技で攻めていたところを中断して引き分けにした審判です。
田辺には一抹の不安が過りましたが、それは現実のものとなりました。
試合が始まり田辺が寝技で攻勢に出ると、磯貝戦の時と同様に途中で中断され、最終的に田辺と永岡の試合は引き分けとなりました。
田辺は、ルール変更や不可解な判定を受けながらも講道館の猛者を相手に一歩も引けを取らず、講道館の軍門にも下らず、講道館の猛者たちと闘い続けます。
【引退と死】
大日本武徳会は財団法人であり、国家公認のもとで各地に支部がありました。
しかし、嘉納治五郎率いる講道館の勢力拡大は凄まじく、武徳会の審査委員や師範の多くを講道館の人間が占めるようになっていきます。
時は過ぎ、1909年(明治42年)、田辺は戸張瀧三郎と対戦することとなりました。
戸張は、田辺が上京して初めて試合を行い、その後も複数回対戦している因縁の相手です。
この試合でも田辺は戸張から一本勝ちを収めました。
田辺との対戦を避ける講道館の猛者がいる一方で、何度も何度も挑んでくる戸張の勇気を田辺は讃え、このように評しています。
「(戸張瀧三郎は)嘉納治五郎のように、最初から人とまったく闘うことがなく、自分の手を汚すことなく、人を使って権力を得ようとする人間とは、まったく正反対である」
この時40歳を目前にしていた田辺は、因縁の相手・戸張との試合を最後に引退しました。
一方の戸張もこの試合が最後の試合となりました。
1919年(大正8年)には、様々な柔術の流派が「柔道」のルールに統一され、講道館一強となり、現在へと繋がっていきます。
講道館の隆盛とともに歴史から消えた田辺は、1946年(昭和21年)、77歳でこの世を去りました。
田辺の学んだ不遷流は、娘婿の田辺輝夫が後を継ぎました。
輝夫は、1931年(昭和6年)の第2回全日本選士権大会で準優勝し、その実力を証明しています。
ちなみに、20世紀初頭にイギリスでの柔道確立に貢献し、後に日本で初めて国際プロレス大会を開くタロー三宅(三宅多留次)は、田辺の不遷流で学んでいます。
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以上、卓越した寝技を武器に名だたる猛者を次々蹴散らし、講道館を震撼させた不世出の柔術家・田辺又右衛門の生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇
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【参考文献】 『柔術の遺恨 講道館に消された男 田辺又右衛門口述筆記』細川呉港,敬文舎,2022年
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