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【不世出の横綱】双葉山定次の生涯

みなさんは、69連勝や5場所連続全勝優勝などの大記録を打ち立てた不世出の大横綱、双葉山定次をご存知でしょうか?

第35代横綱・双葉山定次

双葉山は1927年(昭和2年)に16歳で初土俵入りしてから1945年(昭和20年)に引退するまでの間、数々の記録を打ち立て、無類の強さを誇りました。

引退後は年寄・時津風を襲名して有力な力士を数多く輩出し、日本相撲協会理事長としても活躍しました。

今回は、前人未踏の69連勝という大記録を打ち立て、無類の強さを誇った“昭和の角聖”、双葉山定次の生涯を解説します。

【生い立ち】

双葉山定次(本名:龝吉定次)は、1912年2月、現在の大分県宇佐市に生まれました。

5歳の頃、友だちと遊んでいた際に右目を負傷した双葉山は、右目の視力をほとんど失うこととなります。

双葉山が9歳の頃、心労により母が他界しました。

また、父の海運事業もうまくいかなくなり、双葉山は家計を支えるため、船に鉱石などを運び込む力仕事を行います。

双葉山は少年時代の海上生活について、「自然に腰を鍛錬することができた」「これが後日の土俵生活のうえに、少なからず役立った」と振り返っています。(『相撲求道録』)

1926年(大正15年)、14歳の双葉山は田舎相撲の大会で大人を次々に打ち負かします。

当時の日本人成人男子の平均身長は162cmほどでしたが、双葉山の身長は既に173cmもありました。

いくつかの田舎相撲で優勝した双葉山は、地元の新聞に「怪童」として記事が載り、これが大分県警本部長の双川喜一の目に留まります。

双川は、かねてより新弟子探しをしていた立浪親方に「将来有望な少年がいる」と連絡を入れました。

こうして、立浪親方は双葉山と面会し、双葉山の父の後押しもあって双葉山は立浪部屋に入門することとなりました。

ちなみに、四股名の「双葉山」は、双川喜一の命名とされています。

【春秋園事件】

1927年(昭和2年)3月の大阪場所で初土俵を踏んだ双葉山は、5月の東京場所で両国国技館の土俵に上がりました。

田舎相撲で強さを発揮した双葉山ですが、大相撲の世界は甘くなく、特に目立った活躍をすることがないまま日々の稽古に勤しみます。

優勝もないが負け越しもないというあまり人目につかない成績の双葉山は、弱音を一切吐かず、ただひたすら鍛錬に励み、入門して4年が経った1931年(昭和6年)5月、19歳3か月でついに新十両に昇進しました。

しかし、この5月場所では初めてとなる負け越しを経験します(3勝8敗)。

翌1932年1月、大相撲史に残る大事件が起こりました。

春秋園事件です。

この事件は、天竜三郎を筆頭とする複数の関取が大日本相撲協会(現:日本相撲協会)の体質改善や力士の地位向上を求めて、中華料理店「春秋園」に立てこもった事件です。

「春秋園」の一室での天竜

力士の不安定な生活を憂慮した天竜が、義憤に駆られて起こした行動でした。

天竜三郎

ただ、天竜側の要求はほとんど受け入れられず、最終的に協会を離脱した力士の多くは帰参し、事件は収束しました。

一方で、この事件で複数の力士が協会を脱会したため、幕内力士の数が不足しました。

それによって、双葉山は十両から前頭上位に急遽繰り上げ入幕を果たします。

【前人未到の69連勝】

1936年(昭和11年)の1月場所は黒星発進となり、6日目の玉錦戦でも敗れた双葉山ですが、この場所の7日目から伝説が始まります。

7日目の瓊ノ浦(のちの関脇・両國)との一番を制した双葉山は、ここから3年の間に前人未到の69連勝を飾り、番付も東前頭三枚目から、小結を飛ばして関脇、大関、横綱と一気に昇進していきました。

69連勝の起点となる1936年1月場所を準優勝で終えた双葉山は、関脇に昇進して5月場所を迎えます。

この5月場所では11戦全勝で初優勝を果たし、大関への昇進を決めました。

翌1937年(昭和12年)1月場所を全勝優勝、5月場所も全勝優勝し、連勝を40に伸ばした双葉山はついに横綱へ推挙されました。

そして、横綱として迎えた1938年(昭和13年)1月場所を全勝優勝で制し、続く5月場所も全勝優勝を果たした双葉山の連勝記録は66となり、5場所連続全勝優勝という大記録を打ち立てました。

双葉山定次

この66連勝によって、双葉山は事実上の初代横綱である谷風梶之助が残した63連勝という記録を157年ぶりに塗り替えました。
(※江戸時代の興行形態は異なるため、連勝のカウント方法については諸説あり)

谷風梶之助

この頃から世間の注目は「双葉山の連勝がどこまで伸びるか」と「誰が双葉山の連勝を止めるか」に集まり、「双葉山は100連勝するのでは」という声が出る一方で、「双葉、負けろ」と罵声が飛ぶこともありました。

こうして迎えた1939年(昭和14年)1月場所で、双葉山は不運なことに体調不良に陥っていました。

アメーバ赤痢に感染して体重が激減していた双葉山は当初休場を考えていました。

ただ、前年に玉錦が現役横綱のまま病死し、横綱・武藏山は故障による休場続きだったため、双葉山が休場すると横綱は男女ノ川のみとなる状況でした。

そのため、責任感の強い双葉山は強行出場し、初日から3日目まで白星を重ね、連勝記録を69に伸ばしました。

しかし、70連勝が懸かった一番で西前頭3枚目の安藝ノ海に足をすくわれた双葉山はついに敗北を喫しました。

安藝ノ海に投げられる双葉山

あまりの出来事に場内は騒然となり、ラジオの実況放送ではアナウンサーが「双葉山散る」と連呼し、国技館には座布団が舞い続けました。

無敵の大横綱を破る番狂わせを起こした安藝ノ海は、取組後、師匠に報告へ行きました。

安藝ノ海節男

その際、師匠からこう諭されました。

「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」

【引退】

連勝記録が69で止まった双葉山ですが、盤石の強さは衰えることを知らず、その後7回優勝し(うち3回は全勝優勝)、1942年(昭和17年)5月から1944年(昭和19年)1月までの間に36連勝を記録しました。

しかし、体調不良もあって徐々に衰えを見せるようになり、1944年11月場所は8日目から休場、翌1945年6月場所は初日に小結の相模川を下して2日目から休場します。

それから2か月後、日本がポツダム宣言を受託し、終戦を告げる玉音放送が流れました。

その3か月後の1945年11月場所では番付に名を残したものの、双葉山は出場せずそのまま現役を引退しました。

幕内在位 31場所、幕内成績 276勝68敗1分33休

双葉山は、マッタをしない、立ち合いで張り手やかち上げをしないなど、横綱にふさわしい「キレイな相撲」で圧倒的な強さを誇りました。

このことから、多くの力士に尊敬され、多くの相撲ファンから愛されました。

双葉山はその実績を評価され、現役中から相撲道場を開いていました。

道場の師匠としての思いを、双葉山はこのように語っています。

「どんな職場でも、すべて国家のお役に立たねばならない。一人でも多く、正しい本当の力士を、皆と一緒になって生み出し、これこそ真の国技だということを、まず力士同士で示したい。そして土俵を通じて、お国に恥じないご奉仕をしたい」

『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』

双葉山は現役引退後に年寄・時津風を襲名し、道場名を時津風部屋に改めます。

1946年11月、双葉山は土俵上で正座し、断髪式が行われました。

ハサミは賀陽宮恒憲王や吉田茂らが入れました。

【璽光尊事件】

1947年(昭和22年)1月、新宗教団体「璽宇」に石川県警の強制捜査が入りました。

しかし、この時、ある大男が警察の前に立ちはだかりました。

双葉山でした。

石川県警の進入を阻止する双葉山

つい数年前まで国民を熱狂させた大横綱は、新宗教「璽宇」に帰依し、熱心な信者となっていました。

捜査を妨害したため、双葉山は教祖「璽光尊」とともに警察に逮捕されました(璽光尊事件)。

この璽光尊事件はなぜ起き、そして、そもそもなぜ昭和を代表する横綱はこの宗教の門をくぐったのか、簡単にご説明します。

新宗教「璽宇」の教祖・長岡良子(生誕名:大沢ナカ)は、1903年(明治36年)に岡山県で生まれました。

長岡良子

1928年(昭和3年)、25歳で会社員と結婚した長岡は、原因不明の高熱に冒されます。

東大病院を受診したところ一種の小児麻痺と診断されますが、長岡はこの頃から祈禱師に変身し、長岡の家には霊能を慕う人々が集まるようになりました。

これが原因で長岡は夫と別れることとなります。

そんなある日、長岡は宗教サークルを主宰していた事業家の峰村恭平と知り合いました。

峰村は1941年(昭和16年)に宗教サークルの名を「璽宇」とし、長岡もここに加わります。

しかし、峰村は事業に失敗して体調を崩すようになりました。

この頃からサークル内での長岡の影響力が増し、信者の信望を集めるようになります。

そして、1945年5月の空襲で璽宇本部が焼失し、創設者の峰村が別荘に疎開したため、璽宇は事実上、長岡が主宰する宗教団体へと変貌しました。

長岡は「天皇の神性」が自分に乗り移ったとして自らを「璽光尊」と名乗り、住まいを「璽宇皇居」と称するようになります。

一方、天皇賜杯を12回授与され、天皇陛下に崇敬の念を持っていた双葉山は、日本の敗戦、そして神と信じていた天皇の「人間宣言」によって大きな虚脱感に襲われていました。

こうした中、璽宇を信仰していた囲碁棋士・呉清源の誘いもあり、双葉山は「天皇の神性」が自分に乗り移ったと主張する璽光尊に傾倒するようになります。

呉清源

こうして双葉山は璽宇に合流し、その後璽宇は詐欺や食糧管理法違反などで摘発され、璽光尊事件へとつながっていきます。

逮捕後の璽光尊(長岡良子)は精神鑑定の結果、「妄想性痴呆症」と診断され、釈放されました。

双葉山は親交のあった新聞記者の説得で我を取り戻し、璽宇を離れました。

双葉山は留置場を出た後、こんな証言をしています。

「自分には悲しいかな、学問がなかった。あのなかに己を導く何ものかがあるのではと探求しているうちに、ああいう結果になってしまった」

『力士漂白』

戦争で国土を焼け野原にされ、戦後はGHQによって国を占領され、日本社会の価値観は戦前と戦後で大きく変容しました。

虚脱感に襲われ、何かにすがりたいと揺れていた双葉山の心に付け込んだのが、璽宇だったのではないでしょうか。

【晩年】

璽光尊事件で不祥事を起こした双葉山ですが、現役時代の実績と国民人気の高さにより、1947年(昭和22年)10月に相撲協会理事となります。

1956年(昭和31年)には理事長代理に就任し、翌1957年5月に理事長へ就任しました。

理事長としては、相撲協会構成員の65歳定年制の実施や部屋別総当り制の導入など数々の改革を行いました。

一方、年寄・時津風としては、第42代横綱・鏡里など多くの関取を育成しました。

鏡里に祝い酒を注ぐ時津風親方

優れた業績が認められ、1962年(昭和37年)には相撲界で初めて紫綬褒章を受章します。

しかし、それから6年後の1968年(昭和43年)12月、肝炎を患って体調を崩していた双葉山は劇症肝炎により東京大学医学部附属病院で亡くなりました。

56歳でした。

昭和の大横綱の死に日本中が悲しみに暮れました。

亡くなって数十年が経つ今でも、双葉山の強さは“昭和の角聖”として尊敬を集め、土俵上での態度は模範として語り継がれています。

以上、69連勝や5場所連続全勝優勝といった前人未到の記録を残した不世出の大横綱、双葉山定次の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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