神社の参道は心を自由にさせる
わが家では毎年、年始以外にも氏神様へ伺い御祈祷していただきます。
以前聞いた話しによると神社の鳥居は女性性の象徴でしたっけ?
神社の参道=産道なの?と通るたびに私は首をかしげながら進みます。
そして、うっすらともる境内の灯りに吸いこまれるよう石畳みを歩くのが好きです。
感動するくらい美しく整えられ、辺りをくんくんしたり、草むらから急に鳥がガサゴソしてギョッとしたり。巨木の間から差しこむ木漏れ日を凝視し、どんな形に見えるかおもしろがってみたり。
時折りくる静けさを感じつつも、なぜかワクワクして五感をフル活動です。大昔からこの参道を歩いたひとのことを想像すると、自分の考えていることがちっぽけに感じます。どんな想いで歩いていたのかな…
参道を歩くのは、どこか私を自由にさせてくれ、内なるものを感じるのかもしれません。
さて、どうして年始以外にも御祈祷していただくのかというと、
12ヶ月のうち2ヶ月まわってくる天中月のためです。
4人家族のわが家に3人も同じ天中殺を持っている場合[気の移動]というものが起こり、残りのひとりに災いが降りかかることがあります。家庭というのは、ひとつ屋根の下で毎日暮らしてますので、それぞれの「気」が集まっている場でもあります。
算命学にある”天中殺“とは、全てのひとに平等に12年に1度、2年間まわり、月でいえば12ヶ月に1度、2ヶ月間というように年・月・日と細かく分けることができます。
そもそも“天中殺”中には「ことを始めても、うまくはいきませんよ」という期間ですので、当然もろもろの災いに見舞われる恐れがあります。ひとによっては、人生を破滅してしまうひとも…
ですがその場合、天中殺に入る前には「お知らせ」現象が起こります。(だいたい始まる半年〜2年前くらい)
それをうまくキャッチできるような無形に対する感性、つまり「これはなんだかおかしいぞ?怪しいぞ?⁇」という感覚を育てることが大切です。
ひとは有形(金銭・物質)に偏ってしまうと、どうしても無形に対しての感覚は鈍るのです…
家族や親しいひと、おひとりでも神社で御祈祷していただく。
目的が何であれ、特別な信仰心がなくても神の前で清々しい気持ちになるのはもちろんのこと。参道を歩きながら心の解放をしてみる。
神主さんの心と体に響く祝詞の声や優しいどこか母性を感じるようなあり方は、私にとっては見習いたいところです。
一緒に考えましょう。
ご相談お待ちしてます。
智泉堂/清徳泉里
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