新選組に自宅を提供した庶民たち
只今、長州紀行を執筆中なので、自ずと幕末について触れる事が多く、そういえば京都へも何度も訪れたなと回想してしまう毎日です。
前回の投稿記事での映画・「燃えよ剣」で芹沢鴨暗殺の舞台となった京都・壬生の「八木邸」にも2度ほど訪れています。
歴史名所でも当たり前の生活がある
京都は長年”都”として君臨してきただけに、歴史舞台の宝庫なので、あらゆる時代の歴史が残り、日本中の諸藩、偉人など全てにおいて関りの深い土地なのです。
「幕末」というテーマで紀行しただけでも、夥しい数の歴史名所が存在し、とてもじゃないけど一日では回り切れず、大阪から近い事もあって、目一杯丸一日回っていつも強行スケジュールになってしまいます。
京都において、「新選組」や「長州志士」、「坂本龍馬」などの痕跡地を訪れてみると、今でも普通に生活の場として現役だったりします。
例えば坂本龍馬暗殺事件があった「近江屋」は完全に取り壊されて隅っこに石碑だけはあるものの、コンビニになっていたり、新選組活躍の「池田屋」は同名のまま居酒屋になっていたりと、歴史ファンから見ると、興醒めしてしまう事態に遭遇します。
歴史に小慣れた京都にとってはそれは些末な出来事なのでしょうか?
あるいは歴史的建造物の周りには、真新しい住宅が並び、その狭い路地で子供が三輪車を乗り回して遊んでいたりと、日常の中に歴史が存在しているのが当たり前の光景が多いのです。
京都人はもしかしたら、有名な歴史事件が多すぎて少し鈍感になっているかもしれないと感じるのです。
一時期、壬生界隈で新選組屯所となった一般の家は三カ所ありました。
八木邸・前川邸・南部邸の三家です。
そのうち、今現在も同じ家系が維持し、見学できるのは八木邸のみなのです。
あとの二家は持ち主が変わったり、完全に消滅したりで貴重な歴史の痕跡を見る事は出来ず、まったく別の家族による生活の場となっているのです。
前川邸は別の住人が会社を営んでいる
前川邸は、とっくに別人の手に渡っていて、すでに前川ではありません。
現在は違う家族が普通に住居&仕事場として普通に生活しているため、見学不可なのです。
ここの蔵の2階で長州志士の古高俊太郎は、土方らに逆さ吊りにされ、足の甲には五寸釘を打たれるなど、苛烈な拷問を受けていたのです。
いっそのこと殺してくれ!と言ってしまうほどの拷問の上、自白した事で新選組が活躍した「池田屋事件」が起こり、やがて「禁門の変」へと繋がっていくのです。
その他、山南敬助の切腹や芹沢派一人である野口健司が自刃したりした部屋が、未だに残っていると言います。
屯所となった幕末当時の当主は前川荘司という人で、その本家筋にあたる京都六角の前川家は全国諸藩から送られてきた年貢米や作物、商品などを換金していた「掛屋」を営んでおり、公職として御所や所司代、奉行所などの資金運用も担っていて、京都においては名の通った商人でした。
本家は公的機関と密接な関係にあり信頼も厚かったわけです。
新選組の前身である「浪士組」が上洛する際、その滞在所となる宿舎の選定を任され、身内であった壬生の前川荘司邸が京都のはずれに位置しながらも「二条城」に近かったので選ばれたのです。
その前川荘司邸を中心に道を挟んだ西側の八木邸とそこに隣接する南部邸、前川荘司邸の南側の新徳禅寺の4カ所に分宿しました。
そう。元はと言えば、この前川邸が中心になっていたのです。
八木家は今も家系が続いている
前川邸のすぐ西側にある八木邸は、天正年間より今もその一族の方が代々引継がれ現在は15代目当主がこの邸宅を歴史的建造物として開放しています。
幕末時の当主は八木源之丞という方でした。
拝観料は私が行った頃は1,000円だったかな?その中には案内料と和菓子&抹茶も付いています。
案内料というのは実際に新選組の成り立ちから派閥の構成、芹沢派の暗殺事件まで事細かく説明してくれるのです。
一度はサークル仲間のチコさんと二人で。
二度目はなんと家族4人で訪れました。
長男が高3、次男が中3だったかなぁ~
京都へブラっと来た時に八木邸に立ち寄ったのですが、やけに神妙に説明に聞き入っていた息子たちの顔が忘れられません。
これが最後の行楽?になりました。
映画でも描かれていましたが、ここで芹沢鴨とその一派の4名が斬殺されました。
歴史というのは常に勝者のもので、当初の芹沢鴨は完全なヒール役です。
目まぐるしく情勢が変わる中で新選組もまたヒール役へとなっていくのですが、この時点でがまだ”正義”でした。
ですから、表向きは新選組が殺ったというのは伏せられ、あくまでも夜盗の仕業となっているようです。
バレバレですけど。
芹沢は果たして本当にヒールだったのでしょうか?
彼は水戸藩士で、今年の大河にも出てきた「天狗党」の生き残りであり、バリバリの幕府寄りの攘夷派なのです。
”将軍警護のため”という目的が一致した試衛館出身の近藤勇派と行動を共にする事となり、壬生にて滞在します。
さて、なぜ芹沢は暗殺されたのか?
いろんな小説やら文献を読んでいると、確かに商人を脅して大金をカツアゲしたり、毎日一日中、酒を飲み倒して飲まない日はなかったといいます。
商家の奥さんを横取りして囲ったり、目に付く女を手籠めにしたり、それはもう放蕩三昧だったそうです。
一応はそれらの目に余る芹沢の行動を阻止するというのが、表立った理由だったようです。
しかし、真の理由はやはり試衛館組がトップを取りたかったのでしょう。
百姓出身の自分たちとは違い、芹沢は士分なので、余計に敵対心があったのかもしれません。
トップの座を奪うため、土方は知恵を働かせてその機会を綿密に練って、その筋書きを仕立てたようです。
それまでは筆頭局長に芹沢鴨、その下に局長が芹沢派の新見錦と近藤勇という組織図で、一番のトップは芹沢だったから、放蕩三昧がなくても結局は暗殺されていたのではないかと思えます。
芹沢はヒールではあったけれどその反面、とても豪快快楽な人で度量の大きな人だったという伝聞もあり、もしかしたら、”正義”は芹沢鴨にあったのかも知れません。
今のところ確認できるものはありませんが、この暗殺事件の真相にせまる文書や史料が発見されることを密かに願い、芹沢鴨から見た幕末物語も機会があれば見てみたいと願っているのです。
その暗殺事件の時についた刀傷が今もシッカリ残っていて、それがあまりにも深く生々しかったのが忘れられません。
当時の庶民の豪儀さに驚嘆する
前川家に伝わる文献は残されていないのですが、八木家の芹沢暗殺に関しては、子母沢 寛の「新選組遺聞」にその時の詳細が書かれています。
当時の当主・八木源之丞の息子の為三郎がその一部始終を見ていた母から聞いた話の証言を聞いたもので、その中には到底現在の私達には考えられないほどの壮絶な事実があります。
それによると、芹沢鴨が息絶えたのは為三郎さんと弟の勇之助さんが寝ている布団の上で、2人に覆いかぶさって息絶えていたというのです。
しかも勇之助は倒れた芹沢を斬ろうとした誰かの刀が右足をかすり、傷を負ったというのです。
たしか映画でもチラリと廊下に出てきた子供が、「痛い痛い」とのたまうシーンがありました。
しかし、実際には芹沢は応戦しながらも逃げまどい、各部屋を移動したようなのです。
母親はまだ眠りについていなくて、夫の源之丞はたまたま留守だったのもあり、子供たちを守りたくても近づくことも出来ず布団の中から一部始終を見ていたというのです。
家の中で殺し合いですよー!
信じられません。
静かになったと思って見に行ったら、芹沢と同衾していたお梅は首を斬られて皮一枚だけで繋がっていて、当然ながら辺りは血の海だったそうです。
それを子供が目撃しているのです。
信じられません。
いらない心配ですが、後片付けも大変だったことでしょう。
驚くべきは、その後の八木家の対応です。
いつ自分の家族にとばっちりが来るかもしれないのに、その後も引き続き新選組を宿営させているのです。
どの小説だったかは忘れましたが、鳥羽伏見の戦いが始まって、新選組が京都から出るとき、すでに別の屯所に移っていたのですが、この八木邸と前川邸の間にある「坊城通り」を行進して通る際、八木源之丞が涙しながら一本締めをして送り出したというシーンがあり、読んでいて思わず胸が熱くなった事がありました。
新選組の粛清の仕方もびっくりですが、
私がもっとびっくりするのは、これらの庶民の奉仕の精神です。
いくらお上からのお達しで、ご近所の前川さんからのお願いだとしても、こんな訳の分からない、何するかわからない団体に家を開放するなど、どこまで律儀で豪儀だったのかと驚嘆するばかりなのです。
他にも「角屋」や「輪違屋」なども、当然ながら回ったのですが、これ以上語ると終わらないので、またの機会にします。
☆4週連続でいただきました。ありがとうございます!☆