残響3
(連絡すると言われても、連絡先知ってたっけ…)
暗い部屋に戻ると途端に体が重くて、
敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。
何も食べる気が起きない。
私が食べた所でこうめは食べられないのだ。
仕事っていうのはすごくて、目の前の球を打ち続けていれば時間は過ぎていく。だけれど、その世界にはもうのうのうと生きていた自分は存在していなかった。
自分だけが、暗い落とし穴に落ちた様だ。
意識はずぶずぶと、底の見えない暗緑色の沼の中へ
引っ張られる。息が、詰まっていく。
(豆粒くらい小さい子のはずなのになぁ…)
妊娠9週の存在感は、
体の大きさに比例してはくれないらしい。
きちんと、一つの命として私の中にあって、
現実を突きつける。
♪ピコン
着信音でガバッと沼から顔を上げると、
彼氏からのメールだった。
「週末なるべく早く行く」
つまりそれは、今すぐは行けないという意味だ。
それはそうだ。
「大丈夫。ありがとう。」
そう答える他あるだろうか。
これは私の選択した事なのに。
♪ピコン
「アヤ先生に連絡先聞いた。どした?」
ドクン、とひとつ大きな鼓動が自分の耳にも
聴こえた気がした。コウ先生だ。
「ちょっと、文字に出来そうにないです。」
「そか。んー、少し待てる?」
ドクン、ともうひとつ大きな鼓動がした。
どう答えるべきだろう。
こうめの事を口に出せる気はとてもしない。
飲み込んだ沼と共に口いっぱいになって、
きっと吐き出しても形を成さない。
それに、職場じゃない場所でコウ先生に会ったら
自分がどうなってしまうかも、
全く予想がつかなかった。
コウ先生と連絡先を交換していないのは、たまたまではない。
私たちはやけに気が合って、話そうと思えばいくらでも話していられた。明らかに時間の尺度がおかしかった。
その時間がとても楽しくて、とても、楽しくて…。
彼の居ない出勤日はどこかガッカリするようになった。
それは明らかに、恋に似た何かだった。
それを自覚してから、意図的に距離を置いた。
私は、一人で子育てする為に鍼灸の資格を取った上で、好きな人を追いかけて遥々広島まできた直後だった。
子どもを産むならもうリミットという年齢、
幸い彼氏も同意してくれている。
今さら他の人に恋?
ありえない。
私にはもう、そんな時間は残されていない。
(どれだけの覚悟をしてここまで来たと思ってんの。)
彼氏の居ない小さな部屋で、いくら孤独と焦りに押し潰されそうになっても、何度でも自分をそう鼓舞してひとり堪えた。
誰にも頼らなかった。
それは他の誰かに対して以上に、
自分の覚悟に対して失礼だと思ったから。
文字キーの上を親指がさまよって
何も打てずにいると、また着信音がした。
「家、電停の裏だよね。ちょっと行くわ。」
思わず脱力して息が漏れる。
なんなんだろうか、この人は。
なんで、なんで私のして欲しい事が
分かってしまうんだろう。
そんなことされたら−
その先の言葉は自分の中に浮かぶだけでも
おぞましくて、急いでかき消した。
外で軽いクラクションの音がして、私は努めて冷静に、そして気を遣わせない程度に、にへらっと笑って助手席のドアを開けた。
「ハハ…なんかスンマセン。」
煙草の匂い。フロントパネルの灯りに浮かぶコウ先生は、職場で見るのとは別人のように大人びて見える。
「どぞ。乗って。」
「ハイ…。」
白いBMWの柔らかな曲線が、夜へと滑り出した。