「ありのまま」とは。
(第五回。)
昨日のこととちょっと関連するんですが、今日は自己肯定感の話をしたいと思います。
性暴力もですが、いじめ(暴力)も、自己肯定感をズタズタにします。
自己肯定感というと「私には価値がある」という気持ちのことでいいと思いますが、これはむしろ、両親が子供を育てる時に半ば本能的に与えているものだと思います。「いい子だね」「かわいいね」、両親からのそういう言葉によって、自己肯定感は形づくられていきます。
しかし、これが「ありのままでいい」という言葉になると、海外と日本とでは、事情が違うようです。
昨今の日本は、もはや「ありのままでいい」ブームです。僕に言わせると「ありのまま」っていうのは「傷ついた自分」でも「弱い自分」でも「苦しんでいる自分」でもいいってことですか?、と曲解してしまうところです。確かに「苦しんでいる自分」を否定されたらきついどころの話ではありませんが「苦しんでいていいんだよ」、というメッセージには、どこか上から目線を感じます。
「苦しいけど、苦しんでなんかいたくないよ!」
「好きで苦しんでるわけじゃないんだよ!」
「苦しまないで済むようになりたいんだよ!」
というのが、素直な私の気持ちでしょうか。あなたがどう思うかはわかりませんが、今のあなたが性暴力や暴力(いじめ)にあったあと、または常時曝されている状態なら、共感していただけるのではないでしょうか。
海外(と言っても欧米の一部になりますが)では「ありのまま」の逆で、「どう自分をプロデュースしていくか」ということに重きを置くようです。この場面では「こういうキャラの自分」が適切だな、と考えて、自分のキャラを作っていく、とでも言えばいいでしょうか。「ありのまま」とは真逆ですね。
どっちがいい、とは一概には言えませんが、その目論見が成功するならば、大人になった時に精神的に強いのは「自己プロデュースできる方」だと私は考えます。どんな場面でもありのままの自分、というのは、自分をアピールすることを放棄してしまっているように思えますし、いったん自分を否定されれば(そりゃされることもあるでしょう)、「ありのままでいい」という幻想に支えられていた自己肯定感がガラガラと崩れていってしまうのではないでしょうか。
「自己肯定感」は生きていくのに非常に大事です。しかしそれは、すごく小さな子供の頃を除いては、自分で獲得していくものなのではないでしょうか。ただ、ベースとして、両親に与えられた「ありのままでいい」という自己肯定感があれば、いろんなことに積極的に挑戦していくことがより容易になるでしょう。つまり「ありのままでいい」というのは、自分の挑戦のスイッチを押してくれる、あと一歩のところを後押ししてくれる、そういう役目をしてくれるもののように感じます。そして、その挑戦が上手くいくかどうかを決めるのが「自己プロデュース能力」であり、上手くいけばまた自己肯定感が育っていく、上手くいかなくても確実に経験値は積める、そういうことの繰り返しによって、人格が形成されていくような気がします。
そして話は戻りますが、レイプというものは、この自己肯定感を破壊します。少なくとも私の場合は破壊されました。そして、生きることがものすごく大変になりました。
この「生きることが大変になった」という点では、性暴力被害者、レイプ被害者であるあなたには、共感していただけるのではないかと思います。そしてそこから立ち直っていくには、「ありのままでいい」よりは「自己プロデュース能力を高める」ことの方がむしろ重要で、いっそ容易なのではないかと思うのです。
子供のうちは「ありのままでいい」と言ってもらえる場面も多いと思いますし、性暴力のトラウマ(PTSD)の治療には、そんな自分がいても安心な空間で行なわれるのが普通です。
それは「何でも自分の言いたいことを言っていい」空間だからです。苦しみ、悲しみ、痛み、屈辱、怒り、そういう感情を開けて中身を表現するのは大変なことのようですが、表現の仕方は人それぞれです。
ですが、受け止めてくれる人(多くの場合は治療者、専門家)がいてくれれば、涙と言葉は、力になります。
治療の段階は、それこそ人それぞれ、少しずつでいいのです。そここそあなたのありのままでいいのです。