言えなかったおしゃれの話をしよう
向田邦子は、ものを買うとき、もっと探せばもっといいものが見つかるのではないかと、キョロキョロするような子どもだったという。
それを読んだとき、仲間を見つけたような気持ちになった。イメージ通りの洋服を探し求めて、子ども服店のハンガーをかきわけていた私。年に一度、ピアノの発表会の前にデパートで母に洋服を買ってもらうことは、人前でグランドピアノを弾くこと以上に真剣勝負であった。
そのころから、服が好きだった。
袖口のレースや宝石のようなボタンにときめき、ささいなディテールを愛でるように眺めた。40代を前にしても、おしゃれに飽きたことは一度もない。むしろ、失敗を糧に似合うものがわかってきた今が一番、服を楽しんでいるような気がしている。
目下のお気に入りは、シルクだ。シルクのシャツやワンピースがさらさらと肌にふれる感触は、10月の晴れた日の風に吹かれているような心地よさである。目に見えない「着心地」は、身にまとった人だけの秘密だ。上質な素材に包まれると、私という存在は大切にされていいと許されているような気がする。
誰にもわからなくたっていい。
贅沢で、一人ぼっちのおしゃれの喜び。
§
「服が好き」な自分を振り返ると、そこには小さな孤独がつきまとう。
高校時代、憧れていた友人がいた。ルーズソックスの全盛期、ほとんどの女子がだぶだぶの靴下を履いていた中、彼女だけが、シンプルな白いソックスをさらりと着こなしていた。彼女の足元にはいつも、毅然としたセンスが漂っていた。
おしゃれに敏感な女の子たちの会話に、いつも入れずにいた。
人一倍こだわりが強い自覚はあったけれど、そのわりに、できあがった自分が垢抜けないことを知っていた。
もっと上手く話せればよかった。
仲良くなれたらよかった。
そういう友人が、思い返せば何人かいる。
今でも、価値観やセンスや金銭感覚がくっきりと出る、おしゃれの話を無防備に楽しむのは難しい。
§
多感な時期を過ぎ、大人になって「自分のためのおしゃれ」を謳歌していると思い込んでいた私の目に、あるnoteの記事が飛び込んできた。「服装はその人が “どう見られたいか”の願望」だという。その切実な一文に、赤面した。
そう、私は待っているんだ。
「それシルク? 素敵ね」と声をかけられる日を。
好きな服を着ることは、誰のためでもないなんて、嘘っぱちだ。誰かが私の装いを見て、「友だちになりたい」と思ってくれたらどんなにうれしいだろう。もう、服の趣味の違いなんかで、遠慮したりコンプレックスを感じたりする歳ではないとわかっている。それなのに私はまだ、探している。「好き」を分かち合える人から「おしゃれに見られ」たくて。
少女時代の向田邦子が私の肩をぽんと叩いたように、今日出会うかもしれない親友を思う。
だから私は、今一番好きな服に袖を通して、出かけるのだ。