#カワイクイキタイ18「地球の歩き方」
家の中でメガネを無くした。メガネを探したいのに、メガネが無いから見えなくて、メガネを探すためのメガネが必要だった。そんなものはない。でも、メガネを探すためのメガネが、私には必要だった。
どこかに向かっているはずなのに、帰る場所はちゃんとあるのに、電車や車に乗っているとき、夜道を歩いているとき、このまま行くとどこに出るんだろうとよく考える。
ラブホテルの窓はどこにも繋がっていない。ライブハウスの天井は低く、閉鎖的で、どこもかしこもヤニ臭い。東京で暮らす六畳やそこらの部屋。私たちはいつもどこかに行きたいのに、どこにも行きたくないんだ。ここが大嫌いなのに、大好きでもあるんだ。六畳サイズで考える物事に、魅力なんかない。世界は小さすぎる。はみ出せ。収まるな。そんなことばかりをかんがえているんだ。
ベニヤで塞がれた窓からでも、勇気と情熱さえあればどこへだって行ける。私は、ライブハウスの天井に無限に広がる青空がみたい。劇場の中に、銀河鉄道の走る夜がみたい。
「世界は広い」と言う。でも自分の目から見える世界はとても狭い。手の届かないものがいい。到底かなわないもの。でかくて、触れなくて、絶対に自分の思い通りにならないもの。そういうものに、魅力を感じる。自然に年を取ること。自然に生きて死ぬこと。全てはその過程であること。人の心や体が躍動する瞬間にだけ、どうしようもなく感動してしまう。だって、人間は感動するために生きてるんだから。
コンビニでビールを買って、おなじ季節の中、歩きながらか、そのへんに座って、終わらない話がしたい。約束じゃない約束とは、油断じゃなくて安心とは、何日の何時に会おうねとかじゃないんだよ。
なにか答えや結論をだすことが目的ではない、自然で静かな会話。話すべきことだけの会話はつまらない。話すべきことなんか、誰とでも話せるんだから。
近くの店で遅い昼を済ませて、公園にでも出かけたい。どこにも行かなくていい。相席食堂観ながら笑いたい。1日1話ずつみるドラマが終わらなきゃいいのに。
私の地球だから、自分の足で歩いてゆける。
目的地は知らない。どこに向かっているのかも、ひとりなのかすらも、私は何も知らない。
「絵がすきなの?絵がすきな自分がすきなの?」
「え、うるさぁ。」
とても冗談で、とても雑談で、こういう会話が、誰とでも続けばいいのに。誰とでもできない、こういう会話が。