#カワイクイキタイ20「あなたがずっと私を忘れませんように」
そういえば今日はまだなにも食べてないな。中断して台所へ行く。冷蔵庫を開ける。昨日の残りものをレンジでチンして適当に食べる。誰か居ようものなら味噌汁や卵焼きのひとつも作るが、自分のためにそこまでする元気はない。私が守れるのは、猫との約束くらい。自分との約束はなにひとつ守れない。
子どものころ好きな子が何人かいたみたいに。あの子のことが好きなんだったらあの子のことは好きじゃないってこと?というのは間違っている。あの子も、あの子も、みんな好きだった。あれは嘘ではない。
心はひとつぼっちではなく、心はいくつもあって、全部本当。
会いたいのも、会いたくないのも本当。元気なのも、頑張れないのも本当。わくわくしてるのも、不安なのも本当。やりたいのも、やりたくないのも。だいすきなのも、だいきらいなのも、全部本当。
私のことなんか忘れてしまえばいい。あなたが私のことをずっと忘れませんように。これも、どっちも本当だよ。
心がひとつじゃないことを知っているからあなたを分かってあげられる。あなたのことなんかさっぱり分からない。でもよく分かる。分かってしまうからわがままも言えない。心がひとつじゃないって知ってるだけで、悲しさや淋しさが呪いにならなくて済む。
もう、うんざりなんだ。世界を呪うの。
想像する。人類は滅亡して、私は海の上にいる。小さなイカダの上で、一糸まとわぬ姿で横たわる。どうして私が残ってしまったんだろう。人を笑顔にするあの子や、明るいあの子じゃなくて。そんなことを考えている。暑くもなく寒くもなく、ただずっと漂っている。
空に大きな星がごろごろと転がっている。月が丸い。雲の流れがはやい。真っ暗なのに明るく、静かなのにうるさい。そばになにかいる。おそらく自分よりもずっと大事ななにか。息をしているのが分かる。息がつまるほどにうれしいと思う。
なんにもないのに、すべてを手に入れた気がする。ただの海、ただの風、ただ漂っているだけで助かる努力もしていない。両手を広げて、野生の獣のように裸で、空を見ているだけ。世界や、命がどんどんと終わろうとしているのに、あまりにも星がきれいで、あまりにも月がきれいで、そのこと以外を考えられない。夜空の美しさ以外考えられないことを、言葉もなく、時には「月がきれいだ」と言葉にして、そばにいる大事ななにかとわかりあっている。
この状況は、絶望的な地獄か、歓喜するほどの楽園か。
夢をみていたようだった。イカダはセミダブルのマットレスに姿を変え、星の光は窓から差し込む街灯になった。どこまでも真っ暗で広い海は、小さなマンションの一室に。
目が覚めて、なんの感動もない天井を見つめながら、なんの涙か分からない涙を流した。寝息を聞きながら思った。あなたが生きててよかった。あなたが生きてて、本当によかった。