v_0254 その痛み、別の痛みでごまかしていませんか?
健康を意識するとき。それはきっと、具合が悪くなったとき。人間は、当たり前に享受していたものを失いかけて初めて、その尊さに気づく。でも普段は、自分の健康をありがたがったりすることもあまりなく、それが脅かされている事実から目を背けようとさえする。
ここでは、実はダメージを受けているのに、それをあえて別の種類のダメージを自らに与えることでごまかしていることって、実はけっこうあるのでは?という話をしたい。そのストレス、別のストレスでごまかそうとしていない?
私が人生で一番具合が悪かったときのこと。それは2012年、シングルマザーとなって復職したとき。
私は2歳児を一人で抱え、営業として億を超えるノルマを追いかけていた。ワーキングマザーグループという、会社としても新しい組織の形を模索していた時期で、「働き方改革」も叫ばれ始める前。長時間労働を脱してどう生産性を上げるか、という議論が始まる前の話だ。成果を時間で担保する構造から抜け出せず、そうすると私のようなシングルマザーは、時間の捻出との戦いだった。24時間という人類に平等に与えられた時間を、いかに育児の時間を減らすか、いかに寝る時間を削るか、ばかり考えていた。
歩くときは電話でお客さんか社内と電話。ただ歩くだけなんて勿体無い。電車は整列乗車で乗って、座りながらパソコン作業(今ならカバーしててもアウトです)。土曜日ももちろん保育園。日曜日も預け先を探す。
会社からダッシュで保育園へお迎えに行き、なんとか夕飯を食べさせてお風呂に入れて、寝かしつけというか倒れるように一緒に22時に寝る。そして3時に起きて即、仕事。じゃないと回らなかった。
しかも、それだけではなかった。当時私は離婚裁判中。調停では決着がつかず、双方弁護士を立てての離婚裁判に発展していた。長期間に渡るもので、弁護士とのやり取りや、実際に裁判所に赴くことも、仕事の合間にやっていた。アポとアポの合間に裁判所に行く営業パーソンもそうそういないだろう。
そんな生活、長く続くわけがなかった。最終的に睡眠薬を飲まないと眠れなくなった私は、自ら異動願を申し出た。小さい頃から水泳を、学生時代はずっとバレーボールを続けてきて、体力はそれなりに自身があったし、実際体力はある方だと思う。でも限界だった。
寝るものの、眠りが浅く、リアルな夢を一晩に何セットも見る。翌日大事なアポがあれば、アポイントに遅刻するという夢を3回連続で見て、結局途中から眠るのをやめる。夢の内容がリアルすぎて、記憶が夢だったのか現実だったのか、本気で分からなくなる。「先週のあの出来事、あれって現実だっけ?それとも夢の記憶だっけ?」…追い詰められていた。体からもサインが出ていたし、結果を出せなかった自分は、会社からも社会からも必要とされていない、と精神面もボロボロだった。
今から思うと完全にやられていたわけだけど、当時はなんと、激務と裁判が重なって良かったとさえ思っていた。裁判のことを考えているときは、仕事のつらさを忘れられたし、その逆もそうだった。そうやってバランスをとっていたつもりだった。どちらも心底キツいことだったので、そのキツいことを一時的にでも忘れるためには、またそのくらいキツいことが必要だと思った。
出産のときもそうだ。約4キロで生まれてきた長男の出産は二日がかりで、猛烈な陣痛に気が狂いそうだった。でも嘔吐したり、点滴の針を刺すのを何度も手の甲でやり直しされているときは、陣痛のことを少しでも忘れられた。痛みを消すのは別の痛みだな、とそのときは真理だと思った。
でも、決してそうじゃない。右から殴られたあと、左から殴られることで、定位置は保ったのかもしれない。でも体と心はもう取り返しのつかなくなる一歩手前まできていたんだと思う。最後の気力を振り絞って異動願を出した当時の自分に心から感謝している。
ここまで極端な例は少ないかもしれないけど、もっとマイルドな例なら身近にないだろうか。
家庭で居場所がないと感じるけど、そのいづらさを、激務の間は忘れられる。
頭痛がひどいけど、平日はそれを忘れるくらい忙しい。
この辺りも要注意だと思う。
もう一つは、痛みを「消す」ように見えて、実は別の痛みを与えている場合。例えば、何か嫌なことがあってお酒に溺れる、とか。ストレスをお酒で解消しているつもりでも、実際は引き算になっていない。
別の何かを与えようとするのではなく、その「痛み」に向き合うこと。やっぱりこれが大事だと思う。ときに勇気がいるけれど、サインを出してくれているうちなら、きっとまだ取り返しがつく。
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