幾日 時折 (3)
少し前の話。
私生活が慌ただしく絵も描けない日が続き、久しぶりに描いた絵は心底気に入らなかった。間に合わせのものを並べたつまらないイメージの食卓、パッとしないし何だか味気ない。
机に向かったものの、次第に首が垂れ、椅子からずり落ち床に伏せ、悩み暮れるを繰り返す。
夜中にふっと降りてくるような絵の神様もご無沙汰で、しばらく放ったらかしにしてしまったばかりに、イメージの干ばつ状態だった。
そんな状態に陥り、鬱々しい中で攻撃的で破滅的に描いてみたりと少しでも刺激を送り、鈍った感覚が目覚めないかと試みたりもするが、
そこまで強くない精神力の中で、不穏で闇深い世界をたぐり寄せ、必死に戦いながら描いてみるものの、心の摩耗が激しく、結局負の輪から抜け出せず意気消沈し、しばらく不機嫌な日が続いた。
何が描きたいんだっけ、と途中分からなくなったり、7割くらい描いて途中でやめてしまうこともしばしば。
完成まで辿り着けない中途半端な作品を横目に、一途に育めないことの無責任さに苛立ったり、支柱を外すと粉粉に崩れてしまうことを想像してたまに泣いたりもした。
行ったり来たりする気分に『結局何がしたいんですか?』と冷たく問う心の私が時々現れ、次第に生活と創作のバランスが取れずペースも落ち、その時は描くことをあきらめてしまった。
どうしても負から始まる発想で、明るい場所へ向かっていく気のない彼らを
せめてこの中では偏らせず生かしていく、そのためにどうしたらいいのか。
光を見い出せず、乏しいイメージを身体から解離させて考え向き合う日々で、自分が今まで作ってきた創造物に眉を寄せ慈しむ気持ちと、口惜しさが交互に募り、より一層、心が不安定になっていった。
描いても描かなくても苦しい。
切り離すこともできず、無碍にもできない。
溢れかえる気持ちを整理するために、何気なくスマホのメモに言葉を日々綴るようになった。
苦手な電車に乗りながら綴る。
さっきまで人が座っていたであろう、じっとりした温いシートに座りながら、荒い心拍を感じながら、他人の会話を聞きながら、考え事をしている人の視線を追いながら、よれたスーツのしわを見ながら、早く駅に着いてくれと願いながら、車内の小さな液晶で週間天気を見ながら。
動く車窓の景色と同じくらいの速度で考え巡ると、いつの間にか目的の駅に着いている。
盛衰を経たイメージの力をもう一度信じてみたい。
うまく形が捉えられないものの向こう側を紐解くように感覚を少しづつ取り戻すため、小さな助走を始めた。
言葉に映る絵、絵から移り行く言葉、と日々プレーを繰り返していく。
ひたすらに排出し続けたメモに追尾するイメージに小さな変化がでてきたのは、この習慣を始めてちょうど1年が経過した今年の春頃だった。
迷いや苦悩に近い色ではあるものの質はずっと良く、感情の整理もできているため、曖昧に通してきた感覚のアウトラインがはっきりして、これこそが作品の糧になるのだと、私の中でしっかりと点を強く結びつけた瞬間でもあった。
新しい着想観点のもとで、描きたいイメージの先駆け、アイディアの飛来、襲来した日にはアドレナリンが出続け、寝る間も惜しまず楽しく描き、電池が切れたようにぱったり床の上で眠るような極端な行動にも出たけれど。
奥ゆかしいダークサイド、かつ喜劇的、人間的。
種々雑多な感情の中で薄青い生活を営みながら、私はまた絵を描いている。
波の満ち引きのような緩やかなものでない。
引き寄せと反発を繰り返す横暴な磁力気質と、諦めに近い気持ちでわたしは肩を組んでいる。
創作において葛藤は憑きもので、生活の悩みは尽きもの。
肘で突きつつ、ぬるく赦し合いながら生きていく。
この気質がフィルターとなり、苦労はするがたくさんの景色を見せてくれているのは確かなこと、ポジティブに捉えすぎかもしれないが、わたしは生粋のネガティブ野郎であることも変わりなく。
これからも健康的で明るい負の喜劇を描いていく。