幾日 時折 (2)
心に危うさを持っている時ほど、外へ向けた意識が過敏になる。
身の毛がジクジクしてくると全身の緊張が身体の中心に集積し、身の置き場を探しながらメモを開いている。
電車という空間が昔から苦手で、体質的に具合が悪くなりやすい場所だと身体が覚えてしまったせいで、30分以上乗る日、他人の体が密接するくらい混雑した車両に乗ってしまった日は、心拍が上がり激しい緊張感を持ってしまう。
といっても小学生から社会人まで、週5日以上は電車に乗る生活が当たり前だった。
慣れた電車移動のはずが、20代半ばに差し掛かる頃、車内で体調不良になることが続き、酷いときはめまいや吐き気で途中駅で下車を繰り返し、時間通り到着できないことも。
さすがに途方に暮れた。
昔ほどの症状は現れなくなり、現在の生活では車や徒歩移動がほとんどで電車に乗る機会はぐっと減ったものの、月に2・3度は30分以上電車に乗らないといけない日があるため、少し気を張って乗車することになる。
誰かと一緒だったり、座って移動できれば幾分かマシだが、そうはいかない場合の方が断然多い。
今日は大丈夫だろうかと、毎度心配を抱くようになってからは、長い移動の時は早めに自宅を出て途中休憩を挟んだり、小さな対策を取り入れ乗るようにしている。落ち着かせるためのアイテムとして、水分、飴、好きな香りなどは必需品で、鞄を覗いてそれらを確認するだけでも気の持ちようは少し違う。
加えて最近では、乗り合わせた人々の様子を勝手ながら心の副音声を入れながら観察するようにしている。目の前の人や物を次々と捕らえ、直情的に文字を打ち込んでいくもので、複数なら関係性を想像し、会話を聞いたり仕草や目線など感じ取れるシーンなど、細かにメモへ打ち込み、紐づいた自分の感覚や記憶を辿りながら過ごす。
ただ単語を並べているだけの日もあれば、日記のように綴っている場合もある。
こうした情景を言語化していく作業は、置かれている状況を身体へ認識させていくことの近道で、揺れる感情の中で絵を描くように想像を凝らし言葉を掛け、飲み込んだイメージが飽和状態になっていくのが心地よかったりもする。
均整をとりたい心の働きと、配置の読めないアンバランスなイメージの間に私がいる。
2つのエネルギーに一度は飲みこまれるが、出来上がっていくイメージに温度を感じると、不思議と昇るような心地になる。
自己完結型の現象で、その瞬間は誰とも分かち合えないが、確かに私の中で起こっている防衛本能と隣り合わせにある新たなイメージの始まりでもあった。
観察といえど、じろじろは見ないよう気を付けているが、ほとんどの人がスマホに夢中で、そこまで気づかれず思案顔の私が窓に映っているだけ。
こうゆうフラストレーションの使い道もあるのかと一人繰り広げていると、集中しすぎて、目的地に到着する前にしっかり疲れてしまうので注意が必要。