小学生の頃 その1|私と家族 〜祖母の100年〜
みなさまに、おはようございます。
普通の、少し長生きさせてもらってるどこかのおばあさんのお話にお付き合いいただきありがとうございます。
私の人生は野上町で始まりました。父が早くに亡くなりまして、母と妹と私は青野町の母の実家に引っ越しました。その家はもう無くなって、写真のような竹藪があるだけです。
世間では、嫁いだ先から事情があって実家に帰ってくる、そんな私の母のような人のことは「出戻り」といわれます。でも、小さな子どもをもつ若いお母さんに使うのはちょっとプレッシャーの強い言葉ですね。「出戻り」になりたくてなってるわけじゃないですし、そのような状況に、誰が、いつなるかはわからないのですから。身の回りにそのような方がいらっしゃったら、どうか思いやりの気持ちで見守ってあげてくださいね。
さて、私は青野小学校に入学し、その家から通いました。担任の先生は、確か、野上町とは反対隣の稗原(ひえはら)町にお住まいだったS先生という方でした。小学校時代は青野が一番長かったように思います。それでも2年間くらいでしょうか。
実家といっても山間の小さな集落にある、小さな家で跡取りの家族も住んでいましたから、肩身は狭く、出ていくしかなかったのだと思います。私が青野小学校に通っていた数年の間に、実家から出て、小学校のすぐ裏の家に3人で住み込ませてもらい、さらに別の家にも住まわせてもらったことがあります。
青野の次は、同じ井原市内の七日市町に住みました。私は出部小学校に通いました。3年生頃だと思います。1回目の転校ですね。孫の調べによりますと、その頃は出部村立だったそうです。母の仕事は何だったのか、わかりません。
先日、孫の亮彦と曽孫の友之介がドライブに連れて行ってくれて、そのことを話したら、七日市町のその家があったあたりに連れて行ってくれました。残念ながら懐かしいと思う場所はなかったです。当時は辺りは一面田んぼで、今のように街ではなかったでしょうし。でも、亮彦が学校の位置を教えてくれたので、車の中で、田んぼの畦道を歩いて通ったのはなんとなく思い出しましたよ。
とはいえ、実は、出部小学校に通った記憶はほとんどありません。あんたは出部小学校に通ったんで、と言われてたから、そうなんだろうと思うだけで。とても短い期間だったんでしょうね。
それから、ついに、私たちは井原市から出ていきます。
今日はこの辺で。
お先に。おやすみなさい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?