戦国〜安土桃山時代の意外な話

①織田信長は「うつけ」と呼ばれ,馬鹿にされていた!!

「うつけ」とは今でいう不良みたいなもので,信長は幼少期〜成人期までずっと「うつけ」と呼ばれていました。
さらに信長は成人期の方が幼少期よりもうつけ者だったと言われています。一体なぜそのような汚名を着せられたのでしょうか?

幼少期の信長は若い頃に普通はひとつしか持ち歩かない、水を入れるためのひょうたんを何個も持ち歩いていたり、派手な格好をして同じような仲間を引き連れ、街を練り歩いていたそうです。
確かに武家の御坊ちゃまがこのような事をするのは周りから白い目で見られると思いますね。
そのうつけっぷりは成人期になるとさらに考えられないような行動を起こしはじめます。

一番有名なのは、信長の父の葬式の日の出来事です。
信長は喪主でありながら葬式に遅刻し、いつもの派手な服装で現れたのです!そしてまともに喪主を務めるどころか、父の位碑に抹香を投げつけて去って行っていきました。

私はあまりにも想像を超える信長の行動に驚きました。しかし、信じられないことにこの信長の気違いぶりに、才能があると見出した人物がいたのです…。

その人物とは「斎藤道三」。
信長は彼の娘である濃姫と15歳の時に結婚しています。

信長は道三にもこのようなうつけっぷりでひどい態度をとった訳ですが、道三は信長のただならぬオーラや堂々とした態度と受け答えに「こいつは只者ではない。うつけの格好をしていても中身はそうではないのだ!」と信長の本質を見抜いて娘との結婚を快く認めたそうです。

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②豊臣秀吉は指が6本あった!!

豊臣秀吉は指が人より多くある「多指症」と呼ばれる先天異常の病気でした。
病気といっても生命に異常があるわけでもなく、日常生活にも不便はなく、現在でも多指症の方はいらっしゃいますし、珍しい事ではありません。

多指症の方は、子供がまだ小さい頃に手術をして、形状異常な部分を除去するそうです。
豊臣秀吉の時代にも、多指症で生まれてきた武将の子は、幼い間に処置したそうです。しかし,秀吉は農民出身だったので,処置をする事無く大人になるまで6本の指のままでいたようです。ちなみに親指が2本あったようです。

前田利家の「国祖遺言」や宣教師ルイス・フロイスが書いた「日本史」に、秀吉の指が6本であったと書かれています。
前田利家と言えば、豊臣秀吉の信頼も厚く、豊臣政権では5大老まで勤めた人物です。秀吉との関係が深かった前田利家が書いた内容なので、ある意味信憑性がありそうですね。

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