#23 東日本大震災から8年が経って
普段はだらだらとこのnoteも〆切過ぎてから慌てて書いているような僕だけど、今日は丁寧な気持ちでパソコンに向かっています。
これを書いている今日は、2019年3月11日。東日本大震災からちょうど8年が経った日だ。
今日はこのことについて書きたい。
まず、東日本大震災(以降、単に「震災」と表記します)が起きた当時僕は高校3年生で、大学受験に見事に失敗し浪人が決定してすぐの頃だった。
テレビの前には見たこともないような光景が広がっていて、世界中の人々が慌てていて、僕は無職で何もできなくて。その無力感がとてつもなく悔しかったから、大学に入学したら絶対に東北へボランティアに行くと決めていた。
翌年無事に大学に進学し、その年(2012年)の9月に実際に南三陸町へガレキ撤去のボランティアに行ったわけだけど、震災から1年が経っていたとはいえ当時は復興なんてまだまだ進んでいなくて、凄惨な光景に言葉を失った。
※今回のテーマと外れるのでボランティアの内容やそこから何を感じたかについては割愛します
その経験から、以降の大学生活でも東北のことはずっと気になっていて、生意気に聞こえるかもしれないし無責任な発言かもしれないけど、敢えてわかりやすく言うなら、東北を身近に感じていた。
大学卒業後、某企業に入社して最初の配属先は仙台だった。不思議な縁を感じながら仙台で数年間働いていたけど、地元の人々は震災の話題を敢えて避けるようなことはなくて、たとえばお客さんとの世間話の中で普通に震災の話題になるようなことも多く、驚いたのを覚えている。その時に、気を遣うことと相手を思いやることは別物(というか正反対)なのだと知った。
2012年に南三陸に行った時の空気感と、2016年に仙台を訪れたときの雰囲気はまた別のものだった。4年も違えばそりゃそうでしょ、と思うかもしれないが、それって実に浅はかな考えだと思う。
地元の人が語っていた言葉で最も強烈に印象に残っているのは、
「まさか6年も仮設住宅で生活することになるとは思わなかった」
というもの。
その人がどれだけ震災の記憶と背中合わせで人生を歩んできたのか、強烈に訴えかけてくる言葉だった。
2012年と2016年で仙台の空気感が違ったのは、4年という月日が経ったからではなくて、その4年間地元の人たちが震災と向き合ってきた証であって、仙台という街自体の震災の捉え方が少しずつ変わってきたということだ。2019年のいま仙台に行ってもまた違う空気を感じるだろうし、その変化が必ずしもポジティブでない可能性だってある。「時間が経てば変わる」というのは、昔の記憶になれば忘れられるからポジティブになっていくんじゃない?っていう程度の考え方に感じられてしまって、どうしても好きになれないんだよね。
今日(3/11)、震災から8年の節目の日で、地元での追悼式典の様子がテレビで流れたりネットニュースの記事になったりしていたけれど、例えば昨日(3/10)は東京大空襲から74年が経っていたわけで、そういった報道を見たとしても、「8年」や「74年」という「数字」に対する感想しか持てないのだとしたらそれって凄く悲しいことだと思う。
そんなことを言いだしたら、毎日が何かから何周年記念という話になるわけで、全部に対して感想を持つことは当然難しいしはっきり言って不可能だ。でも逆にすべての事柄に対して数字に対する感想しか持てない人に僕は共感できないし、そういう生き方はしたくない。終戦記念日もそう。そこに対して何を感じて何を考えるかということが大事で、そういう大事に仕方をできる節目の日をいくつか持っていることはとても重要なことだと思う。
冒頭に書いたような経緯で、僕にとってのそういう節目は3.11で、それだけに毎年考える。
仙台時代に知り合った仲間やお客さんや町の雰囲気の記憶と、テレビで見ていた震災当時の様子とはリンクするものではないけれど、逆に言うとそれらをリンクさせるものこそ、「考える」という姿勢だと思っているから。
Chira