大奥(PTA) 第十二話 【第二章 三役揃い踏み】
【第二章 三役揃い踏み】
<四月(よつき)>
その時に御座います。
「うっ」
安子様が急に吐き気を催され、御口元を押さえ、お体を前に伏せられました。安子様は元よりお体がさほど御丈夫でない上、身重なれどまだ戌の日の帯祝い前の、不安定な四月の時期にございましたから、日に幾度かこうして厠に駆け込む事がございます。
「安子様、どうなされましたか? 御気分が優れぬのですか?」
安子様のお隣に座して居られた常磐井様が驚いてお声がけいたします。
「いいえ、いつもの事にございます。御心配には及びませぬ」
お伝の方様は、その時は何も仰らず事の成り行きを見守っていらっしゃるだけに御座いましたが、安子様は先程のお伝の方様との話の腰を折ってしまった申し訳無さと、御気分の悪さが相まって、御判断の力がお弱りだったのでしょう。また、お役決めの折にここを退出する事は、大奥(PTA)の掟に反し、なにかしらの咎があるやも知れぬ。
このようにお考えになった安子様は、荻野様とお伝の方様にこう申し上げました。
「もし私で宜しければ、御右筆(書記)を引き受けます故、退席をお許しいただけますでしょうか?」
「ま、まあそう仰って頂けるのでしたら。お伝の方様、ご異存御座いませぬか?」
先の御吟味方(選出委員)取締(委員長)の荻野様は、顔色を伺うような御表情でお伝の方様にお尋ねになられました。お伝の方様は何かを企むような、それでいて満足げなまなざしで、ゆっくりと頷かれました。
「それでは、お役決めは後、御勘定方(会計)のみとなりまする」
荻野様のお言葉が終わるか終わらぬかのうちに、畳み掛けるかの如く、先程より急な吐き気を催されたご様子の安子様が、
「では」
と仰り、花子様をその背におぶわれたまま慌てて退出なさろうと致しました。それを見かねて、お隣に座して居られた常磐井様がこう仰ります。
「安子様、お身体に触ります。私が花子様をお抱き致しましょう」
常磐井様は、日頃からこうした喫緊な御対応に慣れていらっしゃるご様子で、安子様のお体からてきぱきとおぶ紐を解かれ、花子様をご自分の腕にお抱きになられると、
「では、行ってらっしゃいませ」
と、頼りになるご様子で安子様にお声掛け致しました。
つい先程まで、安子様のお背中でうとうとと船を漕いでいらした花子様でしたから、大人がたの急な緊迫感、しかも母ではない女の人に手渡されたご自分が、何が何やら分からず、常磐井様の腕から嫌々をして抜け出され、
「おかあたま! おかあたま!」
と、大きな声でお泣きになりながら安子様お探しになられます。
「お母様は、今少しの間席をお立ちになり、厠へ行かれただけに御座いますよ。良い子にして、ほんの少うしのあいだ、お待ちになれますか?」
常磐井様は、ご自身も小さいお子様のお母御らしく、花子様に優しくお声がけなされますが、当の花子様は、ますます大きな声でお泣きになるばかり。
見かねた常磐井様は、荻野様とお伝の方様にこうお尋ね申し上げます。
「お子様がこのような様子に御座います。しばしの間のみ、離席させていただく事は叶いませんでしょうか」
お伝の方様は、常磐井様のすらりとした丈高いお姿を、上から下までじろりとご覧になったのみで、何も仰りません。
声をお発しになったのは、お隣のあの筥迫の君、大典侍様で御座いました。
「そなた、まさかこのお役決めからお逃げになる気かえ?」
<魔物>
まさか逃げようなどとは露程にも思うておりませぬのに、何という融通の利かぬことよ、と常磐井様は御不満にお思いになられ、ご入学の儀の吹き矢から、いやそのもっと前の、上のお子様の時分より連綿と続く大奥(PTA)の理不尽、不条理への御不満が、常磐井様の胸中に黒雲のごとく込み上げて参りました。
ただこのお方も、寺子屋に愛おしい二人のお子を預ける身、逆らえばどんな災いが降りかかるか底知れぬこの大奥(PTA)、ここは忍の一字で耐えねばなるまい。もし、今ここでご自分が何かを口走れば、魔が差してこの場が凍り付くほどの暴言も飛び出しかねぬ。然れどもこの場の方々、これから一年の年季明けまで、いや、この御近隣に棲まう以上、この先何十年付き合いが続くやも知れぬ間柄、争い事は以ての外、御法度なり。
常磐井様はぐっと堪えてご自分の肝に銘じられました。そしてこの後、ご自身でも思いも寄らぬ御言葉を、皆さまに申し上げたので御座います。
常磐井様は、右手は花子様のお手を取り、左手は、まさに今煮えくり返らんとする腑を帯の上からぐいと押さえつつ、努めて目を閉じ一つ深く呼吸をなされると、その御心にご自身のお二人の可愛いお子様方の、屈託のない笑顔を思い浮かべられました。
そうだ、子供らの笑顔を守るためならば、母はこれしきのこと、耐えられぬ筈はない。常磐井様はそう思い直すと、御心とは真反対の、あらんかぎりの笑顔をお作りになり、こう仰りました。
「私に是非、勘定方(会計)のお勤めを果たさせてくださいませ。皆様と一年奥勤めが叶うなら、これほど光栄な事は御座りませぬ。至らぬ処多き私に御座いますが、どうぞ宜しゅうお願い申し上げまする」
常磐井様はこう仰ると、お伝の方様(取締、委員長)、大典侍様(取締御後見、副委員長)、お富様(同じく取締御後見、副委員長)、大奥(PTA)御吟味方(選出委員)の新三役に向かって、深々とお辞儀をされました。
常磐井様はもとより、此度はお役を引き受けるおつもりは無かった筈で御座いますのに、人をして御心と真逆の事を思わず口に出させてしまう、まこと大奥(PTA)と言う処には、得体の知れぬ魔物が棲んでおいでなのでしょうか。
御三方が黙って頷かれるのを見届けると、常磐井様は花子様の小さき御手を握りしめ、
「さあ、参りましょう。お母様はあちらですよ」
と仰り、そそくさと御広座敷(多目的室)を後にされました。
残された他のご一同は、呆気に取られ静まり返っておりました。
そこへ、大典侍様の筥迫の、銀の房の鳴る音のみが、じゃらりと不気味に響き渡ったので御座います。
次章へ続く
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