ちらの自叙伝 vol.3 高校時代+α

vol.1では小学校卒業まで、vol.2では中学校卒業までを書いたのでその続きから。
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某都立高校に入学した。

実は「ちら」という名前のルーツは高校時代の音楽の授業にある。アラジンの「A WHOLE NEW WORLD」を英語でデュエットする謎の授業があり、序盤のアラジンパートの「Shimmering」という単語を当時の私がいたく気に入り、ヲタクネームを決める際にその日本語訳「ちらちら光る」から頭2文字とって「ちら」となったのだ。

そういえば志望理由のひとつに「制服がある」ということがあった。
今の私を知る人は納得すると思うが、私は私服にほとんどこだわりがない。
それは中学生時代も同じで、むしろほぼ毎日部活に明け暮れていた私は私服を選ぶという行為をしてこなかったため、制服がない高校に進学して毎日服を決めなければならない状況に自分を置くのが嫌だった。
今思えばこのときにもう少し私服に興味を持っておくべきだった…時すでに遅し…

部活に関しては、特に迷うことなく吹奏楽部に入った。
中学時代と変わらずに打楽器パートで。
自称進学校(笑)だったため、部活の活動時間の制約も多かったし、大学受験のために高校2年の3月で引退だった。
他の運動部は普通に高校3年になっても大会に出たりしていて、1番長いサッカー部は10月くらいまで現役だったので、なんで吹奏楽部はこんな引退が早いのかかなり疑問だった。

高校1年のときは良くも悪くも平和な部活だった。
音楽教師が吹奏楽の指導ができないということで、普段の練習は生徒が自主的に行い、コンクールや定期演奏会に関しては外部から指揮者の先生を招いて指導して頂く形だった。
そのような形式だったこともあり、部活動というよりはクラブ活動やサークル活動に近い熱量だったと思う。
それはそれで楽しかったのだが、当然の事ながらコンクールでは結果が出なかった。

そんな吹奏楽部に変化が訪れたのが高校2年。
異動により、吹奏楽の指導ができる音楽教師(4,50代男性)が赴任した。
この教師の指導方針は今までのものとは全く異なっており、「そもそも結果にこだわらないならコンクールに出なくていい」、「結果にこだわるなら今のような活動のやり方ではダメだ」という趣旨のことを新学期早々に言われ、私達はコンクールで結果を出すために良くも悪くも厳しく指導されることになった。
良く言えば愛のムチだったが、正直時代や校風に合ってない熱血すぎる指導で、辞めてしまう部員も少なくなかった。
私がパートリーダーだった打楽器パートにおいても例外ではなく、なんとコンクールの2週間前にひとり退部者が出てしまった。
私はパートリーダーとして責任を感じたのもあり、編成を組み替える際に自身に負担が多くなるように申し出た。
結果として、4月から7月下旬までの練習はほぼ白紙になるような担当楽器になった。
この年のコンクールでの演奏曲は福島弘和氏作曲の『交響的詩曲「走れメロス」』。太宰治の「走れメロス」をモチーフにした曲で、聴いていくとなるほどここがあの場面か、となる作品である。
思い出深い曲なのでお時間がある方は一度聴いていただきたい。

後半、直前までスネアドラム(いわゆる小太鼓)を叩いているのにドラを叩かなくてはならない場面が出来てしまった。(上の音源でいうと6:13のあたり。)
どう考えてもスティック(小太鼓のバチ)→ビーター(ドラを叩くバチ)の持ち替えが間に合わない。
そこで私は「手で持ち替えられないなら足で叩けばいいじゃない」というマリー・アントワネットのような発想に至り、ドラムセットのフットペダルにビーターをガムテープでグルグル巻きにして鳴らしてみたところ、思いの外良く鳴った。
吹奏楽人生で一番のひらめきだった。
その後、2週間猛練習を重ねて8月中旬に本番を迎え、金賞を取ることができた。なんと審査員に福島弘和氏ご本人がいらっしゃり、打楽器の編成の工夫に関してお褒めのコメントもいただいた。
(ちなみに吹奏楽コンクールにおける金賞というのは1位のことではない。審査員の採点に基づき、その日の各賞の割合が金賞:銀賞:銅賞=3:4:3になるように割り振られる。)
正直、自分の人生で一番輝いていた日を1日答えるとしたら今でもこのコンクールの本番を答えると思う。
家族が観に来ていて、吹奏楽を始めるきっかけだった姉にどうだったか聞いたら「エキサイティングだった」と返ってきて嬉しかったのをよく覚えている。

高校3年になり、部活を引退した私は抜け殻になっていた。
大学受験と言われても将来の夢も学びたいこともこれといってなく、どんどん学校に行くことができなくなった。
親は私が怠けているのだと思い、強く叱責した。
その後心療内科に行き、うつ病と診断された。
(なお、2025年現在も通院中である。別に気を遣って欲しいわけではないので気にせず接していただきたい。)

病名がついてホッとしたような気持ちもあったが、そうは言っても大学受験は迫っているし高校は卒業しないといけない。
今思えば休学したり、高校を卒業するだけして治療に専念するという選択肢もあったのではないかと思うが、当時の自分はストレートに進学すること以外考えていなかった。
出席日数が足りなくて卒業見込みが出ない(これが出ないと大学受験の資格がない)かもしれないということで高卒認定試験も受けた。試験時間の半分もいらないくらい簡単だった。
受験勉強らしい受験勉強はあまりできなかったが、高2までの貯金でどうにかそこそこの私立大学に受かった。

ただ、そんな状態で大学に進学しても上手く行くはずもなく、休学を繰り返した後に退学した。
その後、興味があるというだけで音楽系の専門学校に入り、こちらはどうにか卒業してその方向の職に就き、現在に至る。
(大学〜現在に関しては正直思い出すのがキツい期間でもあるのと、詳細に書きすぎると年齢や職場バレになるのでこんな感じで。)

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次回はそんな人生を送ってきた私がどのようにアイドルヲタクになったのかについて書いていく。


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