引退発表に寄せ〈遠藤保仁〉
報せ
2024年1月9日。
遠藤保仁選手が現役引退を発表されました。
さすがに彼の年齢を考えると、ここ最近は毎年シーズン終了時はソワソワして。シーズン中でも突如引退発表する選手もいる様子を見ては、シーズン中も気が抜けなく。
いままで幾度となくこの日を想像して、想像だけで切なさや震えが起きてはいましたが。いざ迎えたこの日は、その想像たちよりずっと冷静でおります。
ここで言う"冷静"というのは、
仕事中なのに声をあげて大泣きしたり、
この複雑な胸中で誰かに話し掛けられ「うるせぇ!それどこじゃねんだよ!!」とか急に怒りをぶつけたりしないことを指します。
仕事中にこの報せを知りましたが、潤んでゆく視界に目に力を入れ感情がこぼれ落ちないように、震える唇をギュッと噛みしめ、涙腺から呼応する鼻水をシュンシュンすすり、ときにトイレへ駆け込みグスングスンとするぐらいでしたもの。
自分でもなんて冷静でびっくりしたほどです。
結論から申し上げますと
とりあえず、いろいろ話がぶれ、簡潔性がないことで有名なので先に結論を。
遠藤くん、ありがとうしかありません。
生きる希望を与えてくれた恩人のあなたへ。
本当に長年お疲れ様でした。
だらだらと当時の愚痴や不平不満が溢れかえる予想ですので、3行でまとめろと言われれば、
就活で心が死んでました
そんなとき遠藤保仁選手に会えました
あなたのおかげで救われました、ありがとう
と言う感じですね。
本題
私の人生はサッカーに救われました。
それに出会ってから気付けば14年もの月日が流れ、いまだに愛情を注ぎ続けられてます。この歴史をいまや誇りに思います。
私がサッカーをなぜ愛すのかという理由は、サッカーに救われたからです。私はその感謝を愛に代えて、いまも、そしてこれからもサッカーを愛し続ける理由があります。
そのきっかけをくれたのが。そう、遠藤保仁なのです。
オランダ一人旅エッセイにも綴っていたのですが、出会いの様子はこちらから
(これを機にみんなぜひ1話目から読もうね、絶対ね)
ここで言う「腐りきっていたあの頃」について触れようかな、と思います。
いまさらこの暗い話を振り返るのもしんどい作業なのですが、私の遠藤保仁への感謝を語るには避けて通れないような気がしますので綴ってみようと思います。
就活の苦い思い出
私は2010年卒の就活生でした。
その前年まで世は売り手市場と言われ、就活はそこそこ学生側が有利な状況でした。運の良いことにそこそこな大学に入ってはいたので、そこまで苦労しないのかと思っていました。
リーマンショック、というものがその少し前に起き、私の学年から就活市場は大混乱し始めます。募集停止だったり、募集人員削減だったり、内定取消しとかいろいろな問題も起きておりました。
就活の結果を先に言うと、私は惨敗に惨敗を重ね、一個の内定もとれず就職先が決まらないまま大学を卒業します。
人生で一番の暗黒期を聞かれたら、確実にこの大学4年の2009年~2010年を私は挙げます。
確実に人生で一番グレていたし、腐っていたと思います。
つらい時代とは言えども、決まる人は決まるのです。次第に周りの友達は「内定」という心が落ち着く薬を手に入れていき、解放感や安堵の表情を浮かべます。私の元にはその薬が行き渡らなかったのです。
社会への愚痴
大体、はみ出さず、周りと合わせろという同調圧力の中、周りの空気を敏感に感じ取り、周りが正解と思うような行動を心掛け、精一杯生きてきたのに、急に個性を出せというのは無理があります。
個人の主張など、大人たちが頭の中で用意している正解に近い回答を察して、答えるのが正義だったはずです。
就活というものは、今までほぼコミュニケーションとったことのない世代のおじさんたちの仏頂面を前にして、笑顔でペラペラと自分の長所をお話しせねばならぬことのように私の目には見えました。どうしてそんな状況を怖じ気ずにできましょうか。
欠点はすらすら言えるよう謙遜の教育はされてますが、長所はひねり出さないと出ないようなそんな生き方でした。悶々と鬱々と考え込む日々の始まりでした。
周りと比べる日々
そんないろいろなことが私には理解できず、面接など嫌々やってみるものの苦手なことでうまくできず、毎度落ち込み、その結果は今後の活躍をお祈りされ続ける毎日でした。
その頃、ちょくちょく真夜中に実家を抜け出しては、その頃遊んでくれた今思えばしょうもない男と外で酒飲んでダベったりと、まぁ心は荒れてました。やってられなかったのでしょうね。
HSPという気質があるらしい、と近年ぶわっと広まりましたが、15年程遅かったようです。
私は確実にそれだったのですが、傷付きの度合いから周りと違うということはその当時気付くことができませんでした。就活とは心が折れるものだと得てして語り継がれますが、周りのみんなも私と同等に傷つき、心が折れてるのに、いつでも前向きにがんばっていると思い込んでいましたから、自分は色々なものが足りないのだ、と劣等感を抱くには容易でした。
みんなはどうしてこの異常な現実を受け入れられるのか、落ち込みすぎず進めるのか。こういうシステムだからやりなさいと言われ、即座に応じることができる素直さも私は持ち合わせておりません。
その周りとの差も私を最大限に苦しめ、そんな自分の弱点は気付けているけれどプライドは高く、見ないふりをしていたいのです。
この年は、ずーっと負の気持ちを抱え続けた年で、心臓で生成されたどす黒いものは、どくどくと脈を打って血管を通り、私の体内を巡りめぐっていく毎日でした。
友達はみんな好きでしたが、解放感あふれるみんなと一緒にいるのは次第に苦しく、みんなと会わなくてよくなる世界に行きたいという意味で早く卒業もしたく思ってました。
遠藤保仁との出会い
2010年1月。なにも気分の晴れない新年がやってきました。新春のスポーツバラエティ番組にサッカー選手が出ていました。
あぁ私の嫌いなスポーツ、サッカーか。誰も知らないや。チャンネル変えたいなと思っていた矢先に彼の存在を知りました。
それが遠藤保仁さんとの出会いでした。(上記リンク参照)
完全に恋から始まりましたが、そこからサッカーの知識も、Jリーグも、W杯も世界のチームも知りました。
就活でいっぱいだった頭をようやく違うことに目を向けさせてくれました。張り詰めていた心を少しだけ緩めるきっかけとなったのです。
別のコミュニティがあるといいということは、もっと年を重ねてから知りました。学校が息苦しいなら習い事なり、もう少し大人ならバイトなり、他に心落ち着ける居場所があれば人は絶望しないのだということも。
私にとってサッカーはそういう居場所のようなものだったのだと思います。
卒業しても、私の現実はまだまだ暗黒の状況でしたが、サッカーという楽しみをみつけた私は日本代表の試合に釘付けでした。毎回出ているこの遠藤保仁というお方が、相当な実力者だと知るのはまだまだ先でしたが。
初めてW杯を見ました。南アフリカW杯のあなたの弧を描くフリーキックは深夜の眠気に負けそうな私をひっぱったたき、空へ投げた投げキッスとガッツポーズをあげジャンプして喜ぶ様子。
いつまでも忘れられませんし、忘れたくありません。
W杯から帰ってきたあなたが、海外移籍するかもという噂を聞きました。
日本からいなくなったらもう会えないと焦った私は直近のガンバ大阪の試合を探しました。その頃の私には大阪はパッと行くには遠く、なかなか関東圏での実施はありませんでした。
一番まだいける距離は…とみつけたのが仙台でした。
私のJリーグ観戦デビューはユアテックスタジアムで迎えます。
遠くの席でしたが、顔が見え、動いてるのも確認できました。お金を払えば彼を見れるのか、という新発見は私をまたワクワクさせてくれました。
その後も川崎の等々力陸上競技場では毎週末こんなお祭りのようなことがやってるのかぁ!とJリーグというものに興奮したのも覚えています。
2010年のXmas。私はとうとうホームの大阪へ向かいました。初めて見る岡本太郎の太陽の塔がそびえ立つ、当時は万博陸上競技場へ。長ベンチにビニールテープで一人分のスペースが区切ってあるお粗末な座席で小雪まで降ってきました。
天皇杯の何回戦か、まだ高校生の宇佐美貴史が決めました。その頃の宇佐美がもう30代なんて…時が経つのは早いものです。
そのとき大阪にいた先輩に付き添ってもらい、ご飯を食べたりカラオケしてましたが、私は就活で溜まってたものが久しぶりに爆発し、大泣きし慰められ、そんな感じで東京へ帰りました。楽しいことからまた現実へ戻らなくてはなりませんでした。
翌日にまた面接があり、また苦行の面接が待ち構えてる場所に行きたくない、行きたくない、行きたくない…と朝からつぶやき続け、気重に向かったこの会社こそが、私が初めて内定をもらい、勤めることになった会社となりました。
ようやく私は解放され1年遅れほどで社会人になることができました。
社会に入ったら、私よりずっと年上でも全然まともでない人もいっぱいいたし、あれだけ要らないと断られ続けた私にでも、できることはいっぱいありました。
もし出会わなければ
もしサッカーがなければ、あの頃の私はどんな感情で生き続けていたかわかりません。
あのときあなたに出会えなければ、私は心がやられ、本当の本当に外も出れない程、生きる希望を失っていたかもしれません。
それからも多くの楽しみと喜びと勝利をもたらし、J2降格もあなたが残ってくれたから希望を見出すことができました。私の中でずっとずっと希望でした。
サッカーというのは学ぶことが多く、精神面も、チームという組織は会社に似てることも、いつも周りとではなく自分と向き合うアスリートからは大切なものをいっぱい学び、他人と比べるのが常だった私が、いまでは他人のせいや社会のせい、時代のせいにするなら自分で動いて変えていこう、という気質にまで持っていくことができました。
全国各地で行われる試合は私をフットワーク軽くさせ、オランダに行けたのもサッカーを知らなかったら強い引力にも引っ張られず行けなかったでしょうね。
遠藤保仁がすべてのきっかけでした。
2020年も磐田へ移籍した後にコロナの中ひっそりとパナスタへ向かいました。メンバー紹介にあなたの名前が呼ばれないことにビジョンを見つめる目がぼやけて、本当にいなくなってしまったことを実感していました。
どこからでも引く手あまただったろうに、あんなに長くずっと居てくれて、ガンバを応援し続ける理由をくれてありがとうございました。
最後の選手姿
2023年12月。橋本英郎の引退試合が開催されることになりました。
ハッシーは遠藤くんの次に覚えたガンバの選手で私がガンバを好きになる入口になってくれた人でした。このレジェンドたちを集客力を見ても人柄の良さにとても尊敬が止まない人です。
まだメンバー発表もされてない中、私は行かなくてはならないと思いチケットを取りました。ハッシーが好きという理由だけではなかった気がします。これは直感なのか嗅覚なのか、とにかく英断でした。
追加発表であなたが出ることを知り、喘息も治りかけの中、パナスタへ向かいました。
久々に青黒の7番のユニフォームを纏ったあなたに会えました。
本当に行って良かったなぁと。いつにも増して観客席に気前よく手を振るあなたに、なにか不思議さを覚え、久しぶりに聞くあなたのチャントは耳を喜ばせました。
その日、取材陣に現役続行を希望と伝えたあなたは、年が明けてからなんの音沙汰もなく、2024年はどこでプレーをするのか未発表のままでした。
おかしい。そう思いました。そして彼の発表を少しざわつく心で待ちました。
2024年1月9日
1月9日。引退してガンバのコーチになることが発表されました。
前情報から急転だったけれど、悲しい寂しいより、お疲れ様とおかえりと只々ありがとうの気持ちが溢れたのは、もう充分すぎるほど、いろんなものを受け取ったからだと思います。
選手人生の全ての姿を見れたわけではないけれど、あれから14年もJリーグで、世界で、賢く戦うあなたを観続けられたこと、本当に幸せでした。
前を向く希望をくれたこと、
ワクワクする日々を与え続けてくれたこと、
感謝しかありません。
遠藤くん、長らくお疲れ様でした。