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「答え合わせ」の旅㉚

Oranje

最後の試練

暖かな陽射しと冷たい空気を纏わせた体はデルフト駅に戻る。ロッテルダムまでの帰り方を9292に聞いてみると、列車の他にバスが出てきた。
その頃には平和宮→デルフトで躊躇したトラムもやはりこのTourist Day Ticketで乗れたことに気付いていた。
それならバスも行けるな、とバス停でロッテルダム行きを待つ。
都市間移動だとか大層なことを言っていたが、実はこのオランダ、日本で言うところの九州ぐらいの面積らしい。どおりで。アムステルダムとロッテルダムでさえ1時間ほど。私は九州一週旅行をしてたようなもんか、と思うとだいぶ心は楽になる。
デルフトからロッテルダムへも3,40分ほど。来たバスに乗り込み、席についた。

しばらく乗ってると、途中の停留所から乗ってきた男性が私なんぞの隣に座った。
うぐっ。鼻が歪む。すぐにわかった。大麻だ。
本当にいるのだなぁとこれも異文化学習。ハンカチか袖で鼻を守りつつ、男が途中で降りるまで耐えた。

途中、年齢不明の学生の団体が乗り込んでくる。それはもう人種バラバラ。中東系もいるし、黒人も白人も。そしてやかましい。中東の女の子の横顔のおでこから鼻を織り成す曲線の具合が物珍しくずっと眺めていた。

バスがロッテルダムへ着く。やかましさと共にバスから放たれ、ロッテルダムまで歩くかな、と思ってるとメトロのMのマーク。ピピッとセンサーが働き、吸い込まれるように地下へ降りていく。改札をピッとして他の客の急ぎ足に倣って、少し小走りでホームへ向かうとジャスト乗り込み。一駅のところで降りるとホテル近くのあの駅に着いた。スムーズすぎて現地の人かと思う。
いやはやここまで成長してしまったか。

一度ホテルへ戻り、夕食を食べてからスタジアムへ向かおうと思う。日本から持ってきた最後のインスタントが残っていた、昨日のサラダの残りとかも食べ尽くす。

14階についてカードキーをかざす。うっすらした電子音と赤いエラーが点滅。む?入れない。おいおい。
フロントへ戻り、入れないとカードキーを渡す。なにかを解除したのだかOKとカードを返され、またまた14階へ。今度は部屋に入れた。変なことしやがって。
金庫を見るとちゃんと直っていた。ちゃんと来たようだな、と確認を終える。

段々とこの国に馴染み行く心も束の間、最後に大冒険を控えていた。次から次へと試練を。そう、私はこれからサッカー、オランダ代表の試合を観に行く。

Oranjeとの出会い

オランダ代表との出会いは2010年までさかのぼる。サッカーとの出会いと言ってもいいだろう。
腐りきっていたあの頃。私はサッカーに出会った。死んだも同然のあの頃の私に、生きる希望となってくれた。
(サッカーへの想いもツラツラ書きたいのだが、とんでもなく長文になってしまうので、それは気持ちが高ぶった時に別の機会でまた。)

サッカーなどテレビですら観たこともなかった。なぜなら大嫌いだったから。0-0で終わったり、1点とるまでも長い。なんだかチャラチャラしてるし。
中学のときに開催された2002年日韓W杯はそれはもうお祭りだった。日本戦がある日、教師たちが今日はW杯だからと特別なお達しが出た。午後の授業免除だか部活停止だか、全校生徒に早期帰宅を命じられたのだ。
サッカーに興味ない者にとっては余計なお世話極まりない。中学特有の反骨精神丸出しで、誰もいなくなった教室で友達とだべっていたら教師に見つかった。
「なんで帰ってないのだ、早く帰れ」と怒られた。
知るか。と思った。勝手にこちらの本分の授業をなくしといて怒られるのは筋違いだ。サッカーなんぞより授業の方が遥かに面白い。ふざけるな。
その頃の社会の期末テストには、日韓W杯で日本の対戦国は?なんてふざけた時事問題が出た。
知るかパート2。1分でも観たら負けだと思っていたので全く観ていない。知るわけがない。適当に思い付く国名を書いたが全て外れ。
得意な社会の点数をムダに下げられ、これにもご立腹。
サッカーなんてますます嫌いだ。

それほどまでに嫌いだったサッカー。
始まりは遠藤保仁選手。2010年、年明けのスポーツバラエティー番組に出ていた彼に一目惚れした。
調べると遠藤保仁という男は日本代表に選ばれているらしい。所属チームはガンバ大阪だという。
すでに結婚してて子供もいるらしい。チッと舌打ち。
そこからひたすらに彼を追いかけた。親善試合にもよく出ている。彼が日本代表のレジェンドということを知るのはもう少し先の話。

初めてサッカーをまともに観た。好きな人が出ているなら悪くない。好きな男性アイドルのライブを観てるも同然。完全なるミーハーだがハマっていった。
しかし、サッカーのルールがよくわからない。中高のどちらかで配られたスポーツの資料集を引っ張り出して、まずはルールの勉強が必要だ。
生粋の情報収集力は1ヵ月もあれば、オフサイドの意味すら理解するようになる。恋の力はなんて偉大だ。
サンジも恋はハリケーンと言っていたが、本当に嵐を巻き起こす。大嫌いを大好きに変えるとは。

迎えた2010年6月。人生で初めてW杯を視聴する。
遠く離れた南アフリカで行われたその大会を、私は一生忘れることはないのだろう。本田のフリーキックを放つ前の「さ、が、れ」という口の動き。遠藤の弧を描いたフリーキックを蹴る後ろ姿。長友が試合終了後にピッチに倒れ、尋常じゃない心臓か肺の動き。
全て色濃い記憶として残る。

第一戦カメルーンに本田のシュートで1-0で勝利し、続く第二戦の対戦相手はオランダだった。あのオランダか、と思った。オランダと意外な場所で再会する。

その当時の日本代表は列強各国に対し、引いて引いてカウンター狙いの戦術しかとれなかった。
日本勢はオランダ相手に耐えていた。0-0で終わるなら勝ちも同義だったからだ。
しかし、後半一瞬の隙を突いてオランダの10番スナイデルがミドルシュートを放った。GK川島の大きくパーに開いた両手はボールに触れるも、そのまま威力の強いシュートを弾き返すことができずにネットを揺らした。結局その1点でオランダが勝利。

私が世界レベルのサッカーを知ったのは、これが初めての経験だった。奇しくもあの愛する国オランダが世界との差を教えてくれた。強いなオランダ。日本が敗けたら私はこの国を応援しよう。この日がオランダ代表を応援し始めた日。

オランダはこの大会、決勝戦まで進む。
当時無敵艦隊と言われたスペインと激突し、スペインのアンドレス・イニエスタから延長決勝ゴールを決められ準優勝に終わった。

私が知ってた木靴、風車、チーズ、チューリップのオランダとは新たな側面を見せつけられた。
好きだったオランダ、好きになったサッカー、「好き」という同類項で掛け合わせたら、オランダ代表を好きになるのはもう当然だった。

2014年ブラジルW杯は2010年にはケガで出れなかったドリブラーのロッベンも復活。ファンペルシはフライングヘッドの印象的なシュートを放ち、またもやオランダは私の心を震わせてくる。難なく予選リーグ突破。
この年ベスト4まで進出したオランダは準決勝でPK戦の末敗れる。オランダが負けた瞬間、観客席が映る。ロッベンの息子と思わしき男の子が大泣きしていた。まだ小さい男の子に父親の悲劇がわかるのだろうか。それを見て私も泣いた。悲しい。もっと上に行きたかった。
3位決定戦は勝利する。やっぱり強いなオランダ!

2010年。準優勝。
2014年。3位。
さぁ迎えた2018年ロシアW杯。
そこにオランダの姿はなかった。開幕でそのことを初めて知る。なんで。どうして。
ヨーロッパ予選で敗退したらしい。あのオランダが?
遠藤保仁ももう出ていない。不思議とロシアW杯の記憶はほぼない。遠藤もいない、オランダもいない。
なんてパッとしないW杯だと思って観ていた気がする。

W杯を一大会出ない=次は8年後を意味する。
サッカーはなんて残酷なのだろう。

迎えた2022年秋。カタールW杯開幕。
そこに8年ぶりの愛する国が戻ってきた。

開幕直後、11月。私はコロナウィルスに感染した。
喉の違和感があり、風邪かなぁと思った。早く寝た方がいいくせに真夜中から始まるオランダ戦初戦をどうしても観たかった。ほぼウトウトしながら、スマホを枕元に置き、Abemaの配信から初戦の勝利を見届ける。いいねオランダ。私の見込んだ国はやはり最高だ。
数時間もせず朝が来る。当たり前に寝不足。喉の謎の違和感も引いてないし、なにより眠すぎてだるい。
こんなご時世だし、仕事は念のため休んだ。英断だった。その日の昼に発熱した。まさかなとは思ったが、抗原検査キットを使う。

自宅療養スタート。

毎日変化する諸症状は体力も睡眠時間も奪い、回復の兆しなど見えない状況はメンタルさえも蝕んだ。
数日経つと咳やら喉の痛みで夜寝れない状況が続く。毎晩寝れなくて焦る気持ちがあったが、よく考えりゃどうせ明日も休みなのだ。夜に寝て朝起きる必要なんてないか。体力の限界で力尽きたときに朝でも昼でも寝ようと切り替え、夜は無理して寝なくなった。カタールまでの時差が、深夜0時でも3時でも始まるサッカーを見届けさせてくれた。いい時期にコロナになってくれた。

Abemaに改めて感謝申し上げる。今大会は全試合をAbemaで放映してくれた。オランダ戦など決勝近くの重要な試合でないと放送されるわけなかった他国の試合もフルで観れる。最高だ。

日本戦はもちろんのこと、オランダ戦も全てリアタイで観た。なんてたって私はオランダ代表ファン。彼らは纏うユニフォームカラーからOranje(オランイェ)と呼ぶらしかった。日本のサムライブルーみたいなもんか。
日本語訳はオレンジ軍団。ダサい。勘弁してくれ。

もうどの選手もわからないオランダだったが、そこで一際目を引く選手がいた。背番号4番。センターバック。いつもピンチのときにいい場所にいる。まただ。あれ、またいる。誰だこの選手は。
ミーハーな気持ちからサッカーを好きになったゆえ、戦術のこと、選手のスキルとかを語れるほどの観察眼はない。そんな素人目でさえ、この人がゴール前にいれば、点入らないじゃんと感じた。
Virgil van Dijk(フィルジル・ファン・ダイク)と言うらしい。私はすごい掘り出し人材を見つけてしまったと興奮した。こいつはスターになるぞと確信した。

しかし、ミーハースカウトマンの目測は100万年遅く、ファン・ダイクはとっくの昔に見出だされていた。一年通して世界一優秀だった選手に贈られるバロンドールという賞にあのメッシ、クリロナに並んで候補に選ばれたこともあるほど。センターバックのポジションでは選出されることはほぼない賞に。やば。
世界一のセンターバックともとっくのとうに揶揄されていた。なんとお恥ずかしいことか。

オランダの試合は最後までずっと追いかけた。
低能な乱闘騒ぎと最高の逆転劇、そして遺恨の残すPK戦でオランダは準々決勝でアルゼンチンに敗退した。感情の起伏が激しい試合だった。私は未来永劫アルゼンチンを嫌いになり、悔しさの残る大会になった。
放映期間の終わる日までオランダの試合も日本の試合も2,3回観直した。

いなくなってた8年の間、彼らは世代交代に成功したのだろう。私の知ってる強いオランダは戻ってきた。
InstagramもYouTubeもOranjeを早速フォローし、スマホの待受をファン・ダイクに変えた。

強い引力に導かれ

私がオランダに来た理由。
この時期にコロナにかかってくれたことでの海外旅行への不安材料が一つ消えたこと。
そして本当に最後の一押しはOranjeだった。
背中を押してくれたのは、Instagramのストーリーズ。

2023年が明け、1月にこの投稿が流れてきた。
20年越しのオランダ行きの夢の決着は薄々と今ではないか?と感じていた。
2023年、年明けて程なく私は35歳になる。
「いつか絶対行く」
「行かなきゃ死ねない」
ずっと唱えてきた言葉たちは、35歳で達成出来ないやつが40歳になって出来るわけないと思った。

なんとかなるか!って考えは、残念なことに持ち合わせていない人生で、いつもやる前から不安に怯え、やれない理由をかき集め、一歩も踏み出さないこともしばしばだった。

苦手なこともいっぱいあった。
苦手な人もいっぱいいた。
よく泣いた。よく落ち込んだ。よくやさぐれた。よくモヤモヤした。よくぐちぐちしてた。
でもそれはきっと、いつも問題に目を背けずやってきたからの感情だと、今なら思ってあげれる。いつもちゃんと問題を見つめて乗り越えようとしてた証拠だ。
この子はいくら弱音を吐いても何度も立ち上がって頑張れる子だ。そろそろ信じてあげよう。

このストーリーズは強い強い引力を放って私をオランダへと引き寄せてくれた。これを見た瞬間、Oranjeから「来いよ」と言われている気しかしなかった。
2023年1月。
私は3月にオランダに行かねばならないと決心した。
おぼろげだったshouldがmustに変わった瞬間だった。