![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/170994549/rectangle_large_type_2_d89efa4edf7dbc99db3eb00bb21f24db.jpeg?width=1200)
山ほどある景色から、あなたに
2025年1月。めざめたら、犬と鶏が外で鳴いている。
4日振りに晴れるはずの朝だからだろうか。今日はなんだかもう、空気が浮上してきている気配がする。
「海外移住」というワードをこの3か月ほど、よく使ってきた。
実際に私は昨年の終りごろに、日本からコーカサス地方に引っ越してきたから、関係のある知人友人に近況を伝えるのにこの言葉で説明したのかも知れない。いや、しかし。実際は、「日本を出ます」「日本を外からみつめたいと思う」そんな言葉選びだったと思う。
日本にいる時から、移住はすでに重ねていた。それぞれにそうなる理由と目的地があった。今回はそれが、コーカサスであっただけだ。
移住してきて1か月が経った。今はまだ、自分がいる地の風景に新鮮さと謎の懐かしさが感じられ、ふと我に返るふしぎな心持ちの中にいる。
居住地を変えた時のこの感覚に、憶えはある。
私は3年前の阿蘇でも、車のハンドルを握りながらふと、我に返っていたから。
阿蘇でゼロ地点に立つ準備をしていたのかもしれない
「海外に移住」と言葉にすると、えらいこっちゃ、とんでもない、よく思い切ったねと言われることを想定しつつも周囲にお伝えしてきた。
だけど今思えば、私たちが本当のスタートを切るために思い切ったのは今回ではないのかもしれない。
3年ほどの短い生活だった熊本県阿蘇という地域ではじめたこと・ぶつかった壁・得た出逢いによって今がある。
それより前、私は関西地域に住んだ。学生の頃以来の、いつかまた住みたいと願っていた場所へ、希望を胸に大人になって舞い戻ったのだ。
あたらしいその場所は、私一人でなく家族やその生きざまを受け入れてくれる環境だった。ちぎれるような日々を越えて、大事な存在を引き連れて引っ越してきて本当によかったと思った。学生時代のやり直しなどではなく、何かしらの矜持と真髄を確かめる時間。もうごまかしてごまかされて、いい感じで行けばいいじゃんの世界はご免だとわかった。
故郷に長く居続けると、わかることとわからなくなることがあると思う。
私の場合は、故郷を思うには距離が必要なのだと思う。
ずっとここにいるのかな。長く住む人たちを見てそう思うこともあった。
町を生活を味わいながら、だけど度々、遠出して広い空や高い山を見た。
毎日は平坦などではなく、変化と進化の連続でありもっと追求したいことがあった。
けれど同時に、九州にピンを打った。
「住まい」というひとつを動かすのではない。
呼ばれた処へ、地図を広げたんだと思う。
当時病で寝たきりの母を病院に預け、生まれたばかりの赤子を懐に抱いて、海を渡ってきた。
九州を知らない頃は考えられなかった冬の寒さからのはじまりであった。
そこから半年ほどは、置いてきたものとこれからはじまるものに対しての気持ちが度々ない交ぜとなり、産後の心身状態も手伝って、相当波打っていただろうと思う。(人に言わせれば元々波立ち気味だろうか)
阿蘇の初めての春は、すばらしかった。。。
雨あがりの光・小高い所から鳥のさえずり・見たことない羽の虫がひらひらと通り過ぎていくので、ここは極楽浄土かと意識が薄まった。
自分は現世に何をのこし此処にいるのかなどと考えそうになる。
それまでの「現世」が魑魅魍魎だったわけではない。
ただ、楽しい百鬼夜行だったことは、間違いない。
昔あこがれた西行法師のように、この場所で花散るのを感じながら人生を過ごしていくのだろうかとも考えた。
けれど、私の地図はまだ広がりたいと云った。
この世をちゃんと憂うなら、ちゃんとこの目で見てからにしろと云った。
怖れず面倒がらずに、世界を見ていいんだという声がきこえる。
海を越えても人生は地続きなんだ
ふたたび、家族とともに移動の準備をはじめる。
経験のない手続き・返答のない問合せ。今までの常識はもうはまらない。
阿蘇でできた仲間に多大なる力を借りながらの家じまい(実際は全然仕舞えておらず、阿蘇の方角には足を向けて寝られません)
今回も、自立するために残る家族がいる。
ひとつところにいられない自分を、だけどもう呪わない。
心細さを持つ暇はなかった。たかい空の上から見渡しながら、いちばん最初の自分の夢を思い出していた。
知りたいこと・叶えたいことに、言い訳のフィルターはもういらない。
誰にも勧められないやりたいことをやろう。
今、仮宿の私たちの部屋は、家族の記憶と未知の予感でいっぱいだ。そしてそこには、生活への懸念も、成長の証も、みえずとも感じる本質の在り様も含まれている。どこをどう見極めるかはその人次第で、何処にいたってできるのだろう。
現在の私は、ここでそれに向き合います。
貴重に感じている日本語で、今までとこれからの道を綴っていきたい。
![](https://assets.st-note.com/img/1737435242-tdYrczVWhslkepx3E2u1HNqw.jpg?width=1200)
薄暗がりだった部屋が白んで、家族の寝顔がよく見える。
晴れの予報は当たりそう。
今日も道に出て、この土地のこの時間を味わってみる。
はじめての春がたのしみだ。