俺は確かに、中野梓だった。
知っての通り、あずにゃんは俺らである。
ごちうさ難民を代表するように、○○難民という言葉がある。
可愛らしい女の子の日常を盗むように見てきたオタク。
彼らは突然その日常に置いていかれることによって、聖地から追放された人々の気持ちを理解する。
『けいおん!』においても我々は、「卒業」というイベントによってその日常から置いていかれる。
例えば『ご注文はうさぎですか?』と異なるのは、作中のメインキャラクターの一人もその日常から置いていかれている点だ。
言うまでもない。それは中野梓、あずにゃんである。
「あずにゃん」は他のメインキャラクターと日常を共にしながらも、いつも疎外感を持っている。
「あずにゃん」は他のメインキャラクターの日常を目撃しながらも、最後はその日常に、(その日常から)置いていかれてしまう。
空っぽで殺風景で伽藍堂な音楽室。
あずにゃんは「けいおん難民」であると同時に、
我々オタクを作中に映し出す鏡である。
鏡面を舐めるオタク。
「あずにゃんペロペロ(^ω^)」
この言葉を見た事があるオタクはきっと存在する。
Twitterで一時期流行ったこの言葉は、オタクの気持ち悪さをよく表している。
前述の通り「あずにゃん」はオタクを映す鏡であるため、彼らは鏡面を舐めている。
終盤、PC越しに2次元嫁を舐めていた所、突然液晶がブラックアウトし、オタクの顔が映し出される。
オタクはその時、自分が「置いていかれる側」の人間であるということに気づく。
あずにゃんもまた、私を置いていく。
俺は確かに、中野梓だった。
俺は確かに中野梓だった。
けいおん!の最終回を見た時だけではない。
あらゆるアニメの最終回を見た時、俺は中野梓であった。
周囲には様々な手段で中野梓から抜け出そうとする人もいた。
俺は中野梓だった。
中野梓であることは間違っていないし、アニメーションを愛する限り、中野梓であることからは逃れられない。
俺は中野梓だったが、今はそうでは無いと思う。
俺はすでに日常になってしまった。
「あずにゃんペロペロ(^ω^)」
この言葉を使わなくなったのはいつからだろう。