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ただのインターネット好きだった青年が、サイボウズの管理職にいたるまでの話

前回はチーム紹介をいたしました。その時に自らの紹介を全くしていなかったので、改めて書いてみた次第です。さすがに10年以上も同じ会社で勤めていると書くことが多すぎて膨大な分量になってしまいましたが、これでもかなり絞りました(笑)。内容としては、ほぼ自分向けの記録です。

■インターネットとの出会い

さて、Web歴?と申しますかインターネット歴は遡ること1996年。当時大学4年生だった私はアルバイトをしながら500円貯金で初めてMacを買い、就活もせずにずっとインターネットに入り浸っていました。当時はまだプロバイダーも少ない頃だったのですが、私が住んでいた京都市にはKyoto-inetという地域プロバイダーが発足し、かなりリーズナブルな値段でネットを楽しむことができました。

当時のプロバイダーには、ユーザーが自由に Webページを開設できるサーバー領域を設けているところが多く、Kyoto-inetもそうでした。そこで初めて自分のWebページを作り、「これが世界中の人に見られているのか!」と感動したものです。さらに当時はカウンターの設置が流行り、自分のWebページがどれぐらいアクセスされているのかを毎日のようにチェックしては一喜一憂していた時代です。

■Web制作の趣味が仕事に

大学を卒業してからも、就職はせずにアルバイトをしながら朝から晩まで自身のWebページをメンテナンスしていました。確かまだ「ブログ」というワードが一般的では無かった頃だったと思います。いわゆるWebで日記を書いて仲間内で読み合ったり。周囲からは「デザインがきれい」などと褒められることも多かったことから調子に乗り「フリーランスとしてWeb制作ができないかな?」などと思っていました。

ただ、フリーランスと言ってもどうしたらいいのかわかりません。今でこそフリーランスに関する情報はネットに溢れていますが、当時はそのような情報がありませんでした。就職情報誌を見ても、DTPデザイナーの求人はあまたあれど、Webデザイナーの求人はほとんど無い時代でした。そもそも“ググる”ことが無い時代だったので、情報量が今とは格段に異なりますね。

そこで自身が取った手段としては、かなり古風(笑)でした。様々な企業サイトの会社概要に記載されているメアドに片っ端から「Webサイト作りますよ!」と、自分個人の Webページをポートフォリオにして売り込みをかけてみたのです。今から思えば飛び込み営業みたいな感じですね。基本的にはスルーされることがほとんどだったのですが、それでも数社からはリアクションがありました。ただ、Webデザイナーとしてのオファーではなく、DTPデザイナーとしての打診がほとんどでした。

そんなとき、知り合いの会社から「Webページを作って欲しい」という打診があり、引き受けました。初受注です。仕事の内容としては、とあるメーカーが販売している商品を紹介するページの制作で、いわゆる商品一覧をhtmlで組んでいく仕事だったと記憶してます。

実はその会社に、今のサイボウズ社長、青野さんがおられました。青野さんからも直接お仕事の話しがあって打ち合わせなどもしていたのですが、色々とありましてお流れに。そして、当方がその会社に派遣のWebデザイナーとして働くことになったのですが、当方の入社と入れ替わるように青野さんたちは会社を辞め、松山でサイボウズを起業されました。

■そしてサイボウズへ

1年後、サイボウズが大阪へ移転するということで青野さんからお誘い頂き、サイボウズへ入社することになりました。

最初の大阪オフィスは茶屋町にありまして、10人ぐらいのメンバーでちょうど良いぐらいの広さです。印象的だったのは仕事というよりも環境の方でして、当時「ナビオ族」と言われていた連中の車が19時ぐらいになると梅田近辺に湧いてきます。車載スピーカーから大音量の音楽が街中に響き渡っており、それがあまりに重低音なので建物の中に居てもズンズンと響いていたことでしょうか(笑)。

サイボウズに入社後は、業務内容がガラっと変わりました。当初の予定ではWebデザイナーのつもりだったのですが、業務の大半が広告宣伝、いわゆるプロモーション活動でした。売上が月ごとに倍々で伸びていっている中、その半分を広告宣伝費に突っ込んでましたこともあり、とにかく忙しい。当方が入社した当時はちょうど「サイボウズ Office 3」の製品企画を進めていた時でした。本来ならメジャーバージョンアップでサイトリニューアルを検討すべきだったとは思うのですが、そこまでは手が回らず、Office 2当時のデザインを踏襲する感じで製品リリースしたと記憶しております。

■ベンチャーの急成長について行けず…

当方が入社して数カ月後にはWebサイトのデザインを専門に従事してくれる方が入社。また、プロモーションを担当する方も何人か入社されて、気がついたら管理職という立場になっていました。そして東京への移転。そこでさらに人が増えます。会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長しておりました。

そんななか、管理職としてなかなか成長できない、何をしていいかわからずに行き詰まってしまい。最終的にはサイボウズを退職することにしました。今から思い返すと、当時の自分に管理職として色々とアドバイスしてあげられるのになぁって。そうしたら、もっと違う人生を歩んでいたかもしれません。タラレバですね。

■再びサイボウズへ

さて、退職後は北海道でプラプラとしていたのですが、1年半後ぐらいに色々と事情がありまして東京へ戻ることになりました。そのタイミングで再び青野さんにお誘いを頂き、復職いたしました。二度も救って頂けるなんて感謝でしか無いですね。このご縁は大事にしなければと思います。

復職後は、過去の製品ではありますが「サイボウズ デヂエ」のプロモーションを担当し、製品サイトをリニューアルするのにディレクション業務を担いました。かなり昔の話なので詳細は覚えてないですが、予算を確保せずに進めてしまった後でエラい目にあった苦い記憶(笑)だけは残ってます。

デヂエのプロモーションは、わずか1年ほどで解任となり、その後はグループのリーダーになるなど徐々に現場からマネージメントへと軸足が移っていきました。しかし、以前に退職した経緯もあり、また、自身でも不向きだという思い込みもあったのでマネージメント職は避けようとしていたのですが、どうも運命なのかそっちの方へ引っ張られてしまいます。気がつけばサイボウズ歴は、現場でやっていた期間よりもマネージャーとしての期間の方が長くなってきて現在に至ります。

そんなこんなで、今はWebチームを始め、Web以外の制作物デザインなどを担うクリエイティブチーム、マーケティングリサーチを専門とする調査チーム、そしてマーケ本部内で発生する様々な業務をサポートするアシストチームのマネージャーをやっています。それぞれ全く分野の異なるチームなのですが、それも一つのチャレンジとして受け持っております。

■個人的な活動

一方、プライベートの方では学生の時に作ったWebページを皮切りに、興味の対象が動的なものやインフラ系へと変わっていきました。

大学卒業後に派遣で勤めた会社では、師匠と仰いでいた方にPerlを教えてもらい、動的サイトの魅力に取り憑かれました。どうせなら全て自分でやりたいと思い始め、自宅に今や懐かしい128kのOCNエコノミー回線を敷き、大阪の日本橋で調達してきたパーツでパソコンを組み立ててサーバーに仕立て、そこでメーリングリストの運営やWordPressの開発など、広く浅くではありますが、色々と手を出してきました。それも15年ほど前からは我が家でもクラウドの波が押し寄せ、今では自宅に機材系はほとんど無く、iMacとMacBookだけが残っております。そして興味の対象も動画編集の方へと変わってきました。

■終わりに

子供の頃、母親からはよく「お前は飽きっぽい」と言われていたのですが、気がついたら学生以来、公私ともにこのインターネット界隈に居続けてるってあたり、よほど自分にとっては心地よい場所なのかと思います。マネージャーも、気がつけば10年以上も続けていて個人的には「長い」部類に入ります。「ものすごくやりたい」というポジションでは無いものの、期待されている役割として全うしたいという気持ちと、チームメンバーの成長や自立をサポートしていきたいという気持ちがありますので、引導が渡されるまでは続けていこうと思っております。


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