厭世観がはびこる世界
最近ネットニュースやtwitterやらで国を憂いを嘆く人が多い。むしろその空気感こそが日本衰退の証なのではないかと思う。こういうと揚げ足を取ってそれさえも憂国の証だろうという人が居る。その通りなのではあるが、この議論は無限後退する題目なので仕方のないことだと目をつむってほしい。
人間は悩む生き物だと思う。悩みを解決するには過去に学び失敗を反省し今に生かすしかない。誰しも悩むがいつかは前を向き未来に活かす。自分の糧にする。簡単に思想を呟ける世界だからこそ、誰しもが憂い憂い、憂うだけで現状を見ず過去を見てまた憂う。むしろ本当は杞憂でもなんでもないのかもしれない。悩んでいるふりをしているのかもしれない。
人は苦労することに美学を求める。昨日、全然寝てない。むしろ内心は自慢しているのにも関わらず苦労しているふりをする。この意識、社会全体のムードこそが日本の衰退の原因なのではないのか。私も憂う。ただ実際はそういう性分なのかもしれない。
日本人は古くから嘆いている。江戸から明治、大正から昭和、危機感が日本人を杞憂にする。この流れは誰にも変えられないのかもしれない。田中角栄だってロッキードの後の日本を変えられなかった。日本で一人、いくら頑張っていても時代の流れには勝てないのかもしれない。流れの波にただ身を託すしかないのかもしれない。
日本人の遺伝子には、不安の感じやすい遺伝子がある。不安は悩みを生み人々は杞憂する。悩んだ後にできることは反省して現実を見て次に生かす。それでようやく未来へ歩く。今の日本人は悩んだふりをしながら現実を見て日々労働しているのかもしれない。この空気感こそが要らないだけなのかもしれない。
日本人に足りないことはないのかもしれない。コロナだって欧米は軒並みロックダウンをして強制的に外出制限をしていたが、日本人は自主的に行動制限をしていた。今現在も手洗いうがいはたまにするけど、マスクをすることは守っている人が大半だ。日本人は優秀なのかもしれない。
日本人は誰かに褒められたいのかもしれない。若者はバズりたがる。みんながみんなそうではないが、バズることで承認欲求が満たされるのかもしれない。みんなは周りの目を気にしている。youtubeのコメント欄も面白く、わかっている人間でありたいと思っている。
みんな寂しいのかもしれない。良いものに画面を押すだけでいいねと言える世界だから、言葉にしないのかもしれない。好きなものを周りが嫌いだと好きだといえないのかもしれない。誰がそんなこと決めたのか。誰も決めていないのに。良いものにいいねと言える世の中にならないかな。