選挙を前に国営を考える。
最近国営について考えて、そこから転じて本質的な仕組みが見えてきたので備忘録も兼ねて、国営と照らし合わせながらネットの海にゴミを生み出します。海洋汚染反対!ぴえん🥺!
国営についてはこれまでの自分の哲学では良識のある独裁が最強だと思っていたけどそれも何か違う、というか方法論はなんでもいい気がしてきた。前までは清の4代皇帝〜6代くらいを見てもわかるように良識のある独裁者がいればその国はうまく行くと思っていたし、シンガポールなんかの例を見ても実際そうであると思う。ただ一極に集権している政治の歴史を見ても、大体お金貯めて、国強くして侵略戦争で領土広げたら満足しちゃって、汚職が起きたり、後継争いや権力争いのゴタゴタで中央政府がグチャっとなって、無駄に領土広くしちゃったから監視も行き届かず自重で潰れるみたいなことが多い。この中から学べることは、そもそも何をしたくて、なんの目的で国を強くするのか、目指すべき理想像がないんだよね。主権者は必ず愚かになるからそれに対してのリスクヘッジも必要。
行動する時の流れって、目的があって達成する為に方法論とか、環境認識の学びがあって初めて達成するものだから根源的な目指すべき理由や理想がないといけないと思うんだよね。そもそも人間は目的を得る為行動しているのかもしれない。
余談だけど私見は「結局、日本という国や大和民族を残して遺伝子を未来永劫紡いで欲しい」とは思わなくもないけど、主語が大き過ぎるから本音は「生物の本能とかどうでもいいんでぶっちゃけ今楽しければいいんじゃね?ただ自分の子供に選択肢を減らすことはしたくないなぁ」みたいな。
こう言うところの認識が皇帝とか独裁だと自分の意のままに動かせるから強いんだよね。そしてそれが良識で作られていればいい国にもなる。目的と言う共通認識が一極化しているとその人1人の認識で済むからそのままでいいんだけど主権者が国民だとそうはいかない。普通に考えて独裁者や皇帝が能動的なのは当たり前だから問題にならないんだけど国民主権だと能動的なやつの意見しか聞かなくなる。全員が利己的に動いても機能する仕組みづくりは行政とか報道はやっているのに国民が利己的であることを想定されてないから仕組み自体が錆びついてる。
デモクラシーは多分中央集権の反省から来てると思うんだけどその影響からか国民へのヘッジが全然できていない。ヘッジできていれば主権者は誰がいいかなんてどうでもいい。そうじゃなくて目指すべき国家、上記した共通認識がないのもかかわらず方法論めちゃくちゃ反省してます!っていうのが矛盾というか非合理を感じるw
スポーツで例えると神経で信号を伝達する脳みそが無いのに筋肉や骨格をこのように運動させてこうすればホームラン打てますよ!って考えてる感じw
それと主権者は能動的でないと主権者の意味がないと言うところ。日本国内だとマスコミ批判とか政権批判とかあるけど主権者が能動的じゃないと政治の監視とか全体の奉仕者という大義名分だって機能しないよね。どちらの肩を持つわけじゃないし制度上、人口割合の関係で仕方のない事なんだけど。合理的に考えるとマスコミは能動的な国民の主権者へ決算の報告をする様に報道するべきでそう言った意味合いでの監視だと思うし、政治家だって能動的な主権者の奉仕をするべきでしょ。ただ能動的な有権者の割合でシルバー層が多すぎて偏り出ちゃってるから色々ややこしくなってるだけでw奉仕はしてるんだよね。
身近な例で考えてみれば社会問題、いわゆる主権者の共通認識があるとマスコミだって報道するし監視された政治家だって動くんだよ。ちゃんと理にかなってる。
結局、理念、哲学がないから、目指すべき場所もわからず、みんなばらばらの方向を向いている感じがするんだよね。明治から戦後までなんて、欧米に追い付け追い越せで、国を強くするって言うスローガンがあったから、やることもはっきりしていた。何事にも共通すると思うんだけど、理念とか、哲学ってめんどくさい人が偉そうにわけのわからないことを言っているように感じるけど何か行動を起こすときに一番重要なんだよな。今の日本には哲学がないね。このままじゃいけないと思っている人は多いと思うのにな。みんなで、ぐちぐちと罵りあいながら大和民族は滅亡してしまうのだろうか。
結論。選挙に行って投票しよう!めちゃくちゃでかい一歩やで!