2024年4月

生命と紐づいた面白さ

 布団ちゃんがやる、生命と紐づいた面白さが好き。

 ティガレックス食いはその具体例としてわかりやすいと思う。こういった生命と紐づいた面白さが好きな人にとっては、特大のあるあるとして迫ってくるものがあるはず。それがあるあるとして特大である理由は、まさに生命と紐づいているから。人間が生命だから。好みじゃない人からしたら何バカなことしてんので終わるのかなあ。ティガレックス食いは面白くはあるけど、それだけのものではなく本当に"食の喜び"の実践であって、決して100%ふざけてるみたいなものではない。
 布団ちゃんは配信中によくおならをするんだけど、そちらは正直そんなではない。小粒の気泡が肛門を通過しただけみたいなおならをすることもよくあり、そういうのは全く生命と紐づいてない。布団ちゃんのおならはおならの音として面白いけど、生命の表現ではない。「小粒の気泡が肛門を通過しただけ」 ←このように、むしろ死の世界として言い表されるようなものになっている。
 とは言え、だるい視聴者に説教してるときとか、細かなところだとタバコを吸うタイミングとか、随所で布団ちゃんは生命と紐づいたことをして面白くて好き。

本物の感情

 本物の感情による面白さというのがある。これは前の項目に関連した話になる。うんこちゃんがいつだか、「ウケ狙いをしている奴が一番寒い」といったニュアンスのことを言っていたはずなんだけど、これを僕の言葉で説明すると、「本物の感情」という話になってくる。ウケ狙いをしている人というのは要するに本物の感情で喋っていなく、「こう言えば面白いだろうなあ」というスケベな心が伝わってきて、それは大変臭いということ。
 うんこちゃん、布団ちゃん、もこうさん(もこうさんって呼ぶの変だけど、先生って呼ぶのは少し嫌だ)らへんの人たちが志向している面白さというのは、本物の感情の面白さだと思う。もちろんこれら一流の人たちも、配信を面白くするためにありもののパターンを利用することはしばしばあるんだけど、それも見え方としては本物の感情に見えるようにやっていると思う。

 僕はホロライブが好きなのでその話をすると、ぺこらはパターン利用の頻度がかなり高いが、その見え方は本物の感情に見えるようにするというタイプ。マリンはベースが本物の感情の人。だからゲーム実況ではぺこらの方が面白いし、会話のキャッチボールでのアドリブはマリンの方が面白い。
 ゲーム実況なんてパターンに頼ることをしなければ退屈な時間の方が多いだろうから、これはぺこらの方が上手い。例えば「こういう流れでは調子に乗った態度を取る」というパターンへ乗っけて、あとはその上で本物の感情として面白くやる。この辺は「ゲーム実況」という一つの流儀として格好よくすら見える。
 対して会話中のアドリブでは考えていること、気持ちを述べなければならないことも多く、思いもよらない質問があったときなどには、「どう答えたらありものの面白いパターンに適合するか」といった迷いが、パターン利用の多い人には発生するし、それが見つからなかった場合には割合不安げに返すようなこともある。普段からナチュラルに本物の感情でやることの多いマリンの方が即座に面白いものが出力できる。(しかし本物の感情でやってちゃんと面白くなるというのはかなりすごいことであって、しっかり面白くなるのはやはりマリンの偉大さだと思う)
 この辺については配信を始めるにあたって予めスタンスを選んだというより、もともとの「人間関係の処し方」というのがそれぞれの生活にあり、ここでついた癖のようなものから、自分に合うものへ自然と流れていったのかなと想像してる。

外部化とバランス

 さらに話は前の項目から続く。パターンというのは「外部化されたもの」と表現できると思う。パターンは「こういう流れは面白い」とすでに発見、定着がなされたもので、内側からのものだけではとてもじゃないけど長時間の面白さは成立させられないため、この外部化されたパターンをちょっと拝借する。こういうのはベースが本物の感情の人たちもやっていて、違いはその頻度や使い方が異なるだけ。
 外部化されたものを利用するのは我々一般人も日常の人間関係でやっていて、ダチョウ倶楽部のノリが始まったら、つまんねえなーと思いながらやらされるような場面もある。
 笑いのノリだけでなく、例えば優等生的に振る舞わなければならない場面では仮面をつけたように感じながら外部化されたものを利用し、そこに少量の内側からのものを乗せたりしてやっている。こういうものに苦しんでいる人に対して「そういう君も君なんだよ」みたいな正論があるけど、僕はそんな言葉になんの意味があるんだろうと思ってる。「そういう君も君」は現象を客観的に、自然科学的目線で見た場合の真実にすぎなく、その者の「苦しんでいる」という真実にとっては意味をなすケースは多くなく、ただもやもやするだけだと思う。それを受け入れるのが大人になることだよみたいなのもやかましい。

 ではどうすべきだと僕が思っているのかと言うと、その苦しみをまずは肯定する必要があると思う。「そういう君も君」は、そんな苦しみはくだらない子供の甘えだよと否定していて良くない。良くないのだが、そういう風に人の苦しみを矮小なものと結論することを知的な態度であると思っている人は世の中に多い。
 苦しみを肯定してあげた後にどうするか。ここで僕は共犯関係を築いてあげたらいいと思う。例えば「ではその外部化されたものと、内側からのもののバランスを、研究者のような気分で微調整して楽しんでみたらどうか」と伝えたらいい。ちょっとした火遊びのようなものをあなたと私だけは知ってるねという共犯関係をやる。病は気からというか、同じ物事でも捉え方次第で感じ方や取り組み方が全く違ってくるわけで、このように「優等生の仮面」的な苦境を上のレイヤーからハックするような感覚によって、多少なり心に"柔軟な張り"が生まれると思う。計算高い嫌な人間に成長しそうだと感じる人もいるかもしれないけど、「そういう君も君」と言われるよりは健康的だし、「そういう君も君」的なものはまた別の計算高さへ至るに過ぎないようにも思う。

 このように、外部化されたものに大きく頼らざるを得ないような状況に置かれたとき、人はそれに苦しむ。と言ってその反動で全くそれを利用しないという極へ振り切ってしまえば、そちらでは上手く振る舞うことが出来ずに苦しむことになる。外部化されたものを利用することと内側からのものを出すこと、自分にとって心地良いバランスを見つけられた時、もはや外部化されたものは自分の内側に融合して違和感なく駆使できるような感覚が得られることもあろうし、他人から見てもこの人前と違うなとなることが多いのではないかと思う。

ホロライブVTuber桃鈴ねね

 ねねちについてはもうここ一年ぐらいずっといいなと思ってる。存在として変で明るい。面白いときには本当に面白い。というタイプ。

 天真爛漫なところとは裏腹に、ねねちは臆病すぎるように見えるところもある。恐らく、人間と対面したときの暴力性に敏感な人なのだと思う。斎藤環さんが語っていたことだと記憶しているんだけど、人間と人間が関わり合うときには暴力性というものが存在するという。例えばパーソナルスペースという概念があるように、ただ対面しただけでも相手から感じる圧、言い換えれば暴力性というものがある。この人間関係の暴力性というフレームで眺めてみれば、いろいろなところにそれがあるよなと分かるんだけれど、この暴力性に敏感で傷つきやすいのがねねちの持つ性質なのかなと思ってる。対してそのような暴力性を、生々しく恐ろしい害的なものとしてでなく、勝手にポジティブな解釈へと変換する才能を持っているような人も居て、その辺の個人差は本当に大きいと思う。先の項目の「外部化されたもの」を持ち出すと、ねねちは生まれ持った天真爛漫さを今まで殺さずに持ち続けながら、外部化されたコミュニケーション方法みたいなものを利用することも人一倍多かったのではないか。ねねちがしばしば示すある種の苦悩はこの板挟みによるものかなと思う。(大人数のコラボで前に出ていけないということもかなり辛そうに語っていたことがある)
 一方ねねちが面白いときは本当に面白いという事実もある。これについては、「外部化されたもの」の中でも、掛け合いのパターン的なものよりも上のレイヤーにあるような「一定の面白くなる舞台」みたいなものが整ったときに、下部レイヤーたるパターンなどを気にせずに内側からのものだけで面白さが成立しまくるみたいなことかなと考えている。そういう今のねねちも魅力的なのだけど、配信が面白いということで人気を集めているホロライブのメンバーは、やはり安定して面白さをやっている人たちなのかなと思う。こういうところへもし食い込んでいきたいということならば、外部化されたもの、と言ってパターンだの舞台だの色々なものがあると思うけど、それらを利用する良いバランスを少しずつ肌感覚で見つけるだとか、ねねちにピッタリの外部化されたものを見つけるだとか、そういうことも重要なんだろうなと思う。
 ねねちはこの切り抜きもかなり面白かった。ワロスが言葉として流行らない理由の考察。これは外部化されたものとして指摘できるような何かってあるのか?単にねねちが面白いこと言ってるだけかな。ねねちの感性で勝手にした考察が面白い。そしてその勝手な考察がけっこう強い納得感があるのも面白い。それはねねちの能力としてハッキリあるから、「ねねちの感性で勝手に考察する」という外部化されたもの、どうでしょうか。

周防パトラの雑談の「途中まではわかったw」

 ↑の動画の、パトラが話した内容に対して流れた「途中まではわかったw」というチャットが面白かった。変な感覚による変な話に対して、話の途中の評価を言うというか、変な話に対する評価が変わっていくことの表現というか、それは面白い。
・コント。
・Youtubeの企画。変な人が変な話をする。聞く側が3人ぐらいいて、わからなくなった時点でボタンを押す。最後にボタンを押した人がわかったところまで説明させられる。 早く押した人「そういうことだったのか」 変な人「違います。こうこうこうで~」 みたいなの見たい
・配信。変な話を聞いている視聴者が定型のチャットで評価を示す。わかる:+1pt、素晴らしい:+3pt、は?:-1pt、〇ね:-3pt マイナスがたまりすぎたら終了。マイナスから一気に盛り返すとこあったら楽しそう

 などなど、このワンアイデアで何か面白いことができそうだと思った。

〇ねと〇す

 〇ねが最高に面白くなる瞬間はある。もうこの流れに対して〇ね以外の言葉ではないだろという瞬間。そういう時の面白さは好き。そのため〇ねはあまり乱用するものではないよなと思ってるんだけど、〇すに関してはそんなに面白い言葉ではないと思う。ちょっとエグみが強すぎるし、発言者のイキりの臭みもある。
 全員が〇ねと思う瞬間はあるけど、全員が〇すと思う瞬間はないと思う。全員が〇ねと思う瞬間があるから、その時に添えるとクソ面白い。全員が〇すと思う瞬間はないから、〇すという言葉のエグみとイキりの臭みが際立ってしまうのだと思う。

惑星ループ

 ホロライブの猫又おかゆがカバー曲として歌っている「惑星ループ」という歌が好き。この曲はボカロPが歌い手へ提供した曲だったと思う。手に入らないものがあって苦しくて寂しいんだけど、その苦しさ、寂しさ、手に入らないものへの愛を、そのままで抱きしめるという在り方を歌っている。手に入らないものへの病的な執着というのはやはり恐ろしいものだから、「今この状態を肯定的に抱きしめる」というような在り方を知るのは大事なことだと思う。別に常にそうしようねという極端なことを言いたいのではなく、このような在り方を頭の片隅に入れておくだけでもいくらか幸福に近付くと僕は思う。実際この歌の中でも、"執着を捨てよ"という極端な実践をしているのではなく、執着はし続けていて、執着のピーク的な瞬間にはその猛烈な感情に夢中になって、「抱きしめる」的なことを忘れていたりするのだと思う。知っているだけで幸福に近付く知識というのは、お金を簡単に稼ぐ方法だとかより、この方面にあるのではないか。猫又おかゆの(配信者として見せている)人間性とこの歌の在り方は重なるものがある。だからおかゆの性格というか在り方というかは、尊敬を集めているのだと思う。しかしおかゆにしてもこの曲を作ったボカロPにしても、こういう思想に至っている人はどういう過程を辿っているんだろうというのは気になってる。歴史上の先人の残した思想体系や創作物と、本人の個人的な人生の歩みが絡み合って、これだよなと辿り着いたんだろうけど、個々のケースの具体的な過程をちょっと見てみたい気持ちがある。あまり知らないくせに何となくのイメージで言うけど、星の王子さまってそういう「先人の残した物語」の代表として、人々にこういうものを与えているのかな。

お題に深く入る

 大喜利で「お題に深く入る」というのはよく聞くけど、僕個人的には「お題の中の世界の空気を感じ取る」というものとしてこれをやっている。「ありありと情景を想像する」みたいな視覚情報が目的なのではなく、あくまで世界の空気を感じることが目的なのであって、視覚情報はその目的のために想像している。(と言っても、これは「あえて切り分けて語るなら」という話であって、実際には視覚的な想像と空気の読み取りの間にそこまでハッキリ切り分けられるものは無いようにも思う。その上で、やはり主眼は空気を読み取ること)
 空気を読むということがそもそもけっこう知的レベルの高い行為なので、お題の中の空気を感じるのはいっそう難しいものになる。ここに流れている空気はどうなのか。この世界で何が起こったらどういう空気になって、それは面白いのか。
 ちなみに、「このお題に対してこの単語を持ってくるだけで面白い」みたいなものは、そういった「お題内世界の空気としてそれが面白い」という部分と、「お題の文章と回答の文章を並べたときの」、みたいな、お題内世界とかではなくもっと文章としてみたいな、そちら寄りの面白さもあるように思う。

中動態

 われわれの使用している言語の文法には、態というものがあり、主語が動詞の動作主体であるような場合には能動態(~する)、動作の客体である場合には受動態(~される)という形をとる。この能動と受動という対立はわれわれにとって当たり前のものであり、むしろこれ以外あるか?とすら思われる。
 しかし古代の言語には「中動態」という態があり、その当時の態の対立関係は、「能動態と中動態」だったとのこと。受動態はその後、中動態から派生し、徐々に「能動態と受動態」という対立へと変わっていったというものらしい。

 では、もともとはどういう対立だったのか。能動態はたしかにあったのですが、これが中動態と呼ばれる態と対立していたんです。ではそれはどういう対立かというと、「する」か「される」かではなく、「内」か「外」かという対立です。動詞が名指している過程が僕の外で終わるときには能動態を使って、僕がその過程の場所になっていたり、僕の中でその過程が進む場合には中動態を使う。

 たとえば、“I want it”って言ったら「僕はこれを欲しい」ですから能動態を使いますよね。だから僕らは“I want it”を能動的なものと捉えます。でも、そうでしょうか。これは僕の中で「何かを欲する」という過程が起きているということです。僕が能動的に何かを欲しているというより、僕の中で何かを欲するということが起こっている。これをかつては中動態で説明していたのです。実際にギリシア語では、“I want”に相当する表現「ブーロマイ」は中動態です。

http://igs-kankan.com/article/2019/10/001185/

 能動と受動の対立が当たり前であるわれわれにとっては少し理解が難しいけど、主語と動詞で構成された文の中で「その動詞が示す出来事がハッキリ主語からスタートしている」ような場合は能動、「主語の外でスタートしたものが、主語を"座"として行われている(主語はその動詞の"座"に過ぎなく、意志をもってそれを行っているということではない)」ような場合は中動。そして上の例では、“I want it”は中動とされていた。
 こう説明してもまだまだしっくり来ないぐらい、われわれの中の「能動と受動」の思考は深く染み込んでいて当たり前のものになっている。わからないなりに重要なポイントとして押さえるべきなのは、「能動は主語からスタート、中動は主語の外からスタート」という部分。では「主語の外からスタート」する中動態が失われた言語では何が発生するのか?それは、「行為を誰かに帰属させる」という発想が苛烈になるということ。「誰々が意志を持ってそれを行ったのだ」という思考が強化されるということ。

 能動と受動の対立の世界では、"意志"という概念が生まれた。この意志という概念によって、それまでの過去の経緯を切断し、行為を個人に帰属させることが可能になった。(上に挙げた「中動態の世界」という本の中では、この意志の概念に対する批判が展開されている)
 このように、能動と受動の対立の言語を使用しているわれわれは、行為を誰かに帰属させ、責任を厳しく問うという習性を強制的に染み込まされていると言える。現代の言語について、「中動態の世界」の著者は「尋問する言語」と呼んでいる。

 中動態が現代言語の多くから消えていったことについて個人的に思うのは、まずなぜそうなったのか?と言えば、その方が社会秩序を維持しやすいからなのかなということ。自責、他責という言葉が最近流行っているけど、まさにこのように民衆の中で自責と他責が活発に行われれば、相互監視、自己監視により秩序が維持されやすくなる。また、行為までの過去の経緯を切断して行為を個人に帰属させる発想が当たり前となれば法秩序の運用も行いやすいだろうと思う。ただ、言語の移ろいが「全体秩序の維持しやすさ」みたいな、管理側の都合によって押し進められるものなんだろうか?というのは、自分でも微妙にしっくり来ないところはある。
 個人的に思うことの2つめ。詳細な年代の記述は思い出せないけど、この尋問の言語となってから2000年以上が経過しているということだったと思う(紀元前には能動と受動の対立の言語へ変わっていた)。この長い年月を経て、現代ではインターネット、特にSNSが登場し、ここを舞台として尋問の言語による影響が狂い咲きしているようにも思われる。この時代において、中動態の世界を知ることはとても意義のあることだと思う。上に挙げた「中動態の世界」は難しくて分厚い本なので、まずは下の本をおすすめ。この中の、國分功一郎さんの書いた章で概要を知ることができる。(今まで僕が言ってきた「中動態は主語の外からスタート」みたいなのも、中動態の使われ方の一つであって、他の機能もある。ということを初めとして、「中動態の世界」の方では、もう色々と言語学やら哲学やらの難しく精密な内容がいっぱい書いてあるので、『「利他」とは何か』で強い興味を持った人が読めばいいと思う)

 例えば笑いが好きな人であれば「この芸人からは影響を受けた」というようなことは意識に上りやすいけれども、意識に上りづらい、自力では一生意識することもできないような、「自分を形成しているもの」というのがある。能動と受動という文法の対立関係が自分の思考を形成しているなんていうのもそうで、こういった意識しづらい「自分を形成しているもの」について知ることは大切なことだと個人的に思ってる。私は日本人である。私は現代に生きる人である。私は学校教育を受けて育った。ではそれが私に与えた影響とは何か?特にその中でも意識しづらいものとは何か?「もう読む本がない」という事態は死ぬまで来ないと思ってる。


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